清水太郎さんの「カント学派哲学と大正期日本の哲学」(『現代思想』のカント
特集号に掲載されていたんだな)を再読す。いや、再読じゃねえな。ようやく
それなりにきちんと読めた。こりゃすげえよ。これが二十代半ばのお仕事かよって
な感じ。いきなり提灯を持ち始めたって?。いいじゃねえか。やっぱ信頼せんと
理解はできんのよ。それもまた非合理性や偶然性の自己限定かもしれないが。


しかしこれのどこが失敗作か、全然、わからん。


ふたつ、未熟な私が食いついたところがあった。ひとつは「意志」の問題のところ。
なるほど、そうか、という(清水さんの説明では、いまだ西田が意識即実在の
問題圏内にいたときの、主観から客観への連絡づけのときに、意志の問題が出て
くるという。しかしこれは実践理性ということなのか。不可能だとしてもやらねば
ならぬ、するとできる、という。場所の論理は、これを超えるものであるという。
絶対的に対象化できぬところの主体のいる場、である。これがどう実在と関係する
のか。おそらく、主語と述語との相互包摂の機能の場ということだと思うのだが。
しかし最終的には述語が勝つ。物質=感官はその無の述語的なるものが副次的に
客観化したときに現れる。私の説明じゃようわからんな。しかしそうすることに
より西田はアンチノミーを超克したというのだろう。ここから歴史的世界に向かう
のならば、こりゃたしかに唯物史観より精密だぞ)。しかしこの「意志」は
「欲望」(精神分析系の用語であるが)とどう関わるのか、なかなか(余談だが、
「なかなか」とは私の癖の言葉である。要するに誤魔化しの効く言葉なのだ。
能狂言のテクストをみるかぎり、「なかなか」とは肯づくときの言葉らしいのだが)、
おもしろい点である。


あと「個物」(「個別」といっていいのか?)である。高山岩男の西田哲学解説書
を読んで(ちょっとしか読んでいないが)、なぜ「個物」の問題が出るのかと思っ
たのだが、もち、個=特殊=一般もそうだけど、やはり、新カント派の文脈も
強いんだな。先験的範疇論としての主観から、経験や感官の実在にどう転化できる
のかというところに個物が媒介してくるから。(その個物が名称的なものなのか、
実存・単独的なものなのかという区別は実はあまり重要じゃないといっていい?)。


ただ新カント派の問題意識がすでに実存主義なんかを先行しているはずだよな。
カント自身はどうなのか。ここは西田についてもようわからん。実在や経験を
重視しながら、しかしそれは、主観の後に出てくるものという議論の傾向を共有
している。カント自身は一般的に、物理学や数学を哲学的に基礎づけたといわれて
いる。それはいうまでもなく、ベーコン以来の、英国経験論の議論の整理を意味
している(フランスのそれもある。俗っぽい言葉でいえば、唯物論系の議論である
のだが、誤解してはならないのは、フランスになると、その唯物論が反宗教っぽく
なることである)。経験論っていっても、ヒュームからバークレーから、いろいろ
ヴァラエティが豊かなんだけど。ただその整理ね。


フィヒテ以来にしても、新カント派にしても、少々、英国経験論や仏国触覚論
などを過度に貶めて(要するに先験的範疇論それ自身の自己言及がなく素朴すぎる
っていうんだろ。しかしな。)、神学っぽくなるんだな。物理学が生命論になって
くる。機械論が有機体論になってくる。極度に雑にいえば、そういうことになら
ない?。勿論、この両者が対立するわけではなく、英国の場合などは、最初から
問題を限定して、廃棄(分業)しているところがあるのだが、大陸になると、それ
を統合しようとする野心が出てきて、かえって、メビウスの輪のようなことが起き
てきている。西田はそれをメビウスの輪にはしない、というのだろう。(ちなみに
私自身は、ヘーゲルからマルクスという流れ、物語については、現在は警戒的で
ある。そんな簡単にそういう話には乗れない。レーニンの「唯物論と経験批判論」
なんて、きちんと読んでいないが、まったく信用できていない)。