西田

高倉輝擁護の文脈

http://www7b.biglobe.ne.jp/~takakuraterukenkyu/sp/policy.html http://www7b.biglobe.ne.jp/~takakuraterukenkyu/takakuratomiki4.pdf

webで読めるもので次があった。忘れていた。 http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/%7Ectakasi/hatachi/ito.html 第二分遣隊は北海公園に隣接した赤煉瓦づくりの三階建ての建物を使用していた。 当時としては珍しくトイレが水洗だったのは昭和十六年(一九四一年…

竹田篤司『物語「京都学派」』(中公新社・2001年)。 西田・田辺の右派が「戦争協力」をしたということで公職追放にあったり、中心 から外れるなかで、田中美知太郎などに人事権が移行する。 梅原より二期上の辻村公一も、いまや京大では「自分で考える(Sel…

数日前にアンテナに加えたのだが、マニアックなサイト。 http://homepage3.nifty.com/thinkers/fkstop.htm 深瀬さんも京都学派の一人に数えていいのだと思う。

鈴木成高『世界と人間性』(弘文堂・1947年) :失望させることがない。1930年代のプロブレマティックを棄てていない。鈴木さん自身が 明確に次のように書いている。繁体字を簡体字にする。 殊に吾々にとつては近代は過去でなく未来である、問題であるよりも…

http://www.freeml.com/message/qualia@freeml.com/0004523 「動物ばんばんざい」のページを思い出し、アンテナにくわえる。

○保田與重郎の「イロニー」って、かれ自身がいろんなところで断っているように、一般に 使うイロニーとは意味がちがうのに、ある一部からシニシズムのようなものとして誤解 されているのかもしれない(保田は言い訳をせぬ人だ。自分がどのように解釈されよう…

「一、人格の崩壊と増しゆく弱さとに抗しての私の努力。私は新しい中心を 求めた。二、この努力の不可能が認識された。三、そこで私は進んで解体の道を 歩んだ、このことのうちに私は個人にとつての新しい力の源泉を見出した。 我々は破壊者でなければならな…

記憶はあやふやで当てにならない、合理的でない、ということでタブーになって いる。その結果生ずる、そして意識の中から歴史的次元が脱落するという形で 完成される知性活動の息の短さは、直ちに綜合的統覚の機能低下をもたらすので あり、カントによればこ…

感性=受動性こそ、materialism(質料主義)にかかはる。受動性のなかに、 不自由があるといふよりも、受動性そのものが自由にならない。悟性=能動性 は暴走することがある。受動性の不自由性に現実的なものがある。しかし それは反映なのか。勿論、受動性…

http://homepage3.nifty.com/MASUDA/rock/rock04-04.html 分カル(我ガ誤解セル)トコロダケ引用ス。 つまり美学の言説の中には,階級論的な視野――端的に「歴史を持たない」 大衆への視線――がうまく接合しにくい構造があるように思われる。 美学は感性の一般…

其ニ:衒学ニ非ズ、呉健・坂本恒雄共著『内科書』下巻(南山堂書店・1933 →1948年)ニ次ノ如クアリ(p.369)。 體質=Konstitution 體貌=Habitus 體情=Korperverfassung(oニ¨アリ) 更ニイへバ、 konstitutionelle Korperverfassung=先天性體情 konditione…

「この近代の主要な論理であったディアレクティクは、権力奪取の論理であつて、 生活変革の論理でない。それは暴力によつて暫定する論理であるから、状態の もつ活気を表はすイロニーとは異質な考へ方だつたのである。アジアの本有 の立場は、論理としてのデ…

勝手なリンク: 関曠野さんのスイス論(その系譜) http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4041/seki/0401.html しかし次のようなスイス論(その系譜)もある。 http://www.diplo.jp/articles01/0102-2.html

戸坂潤をちょっと再読。戸坂についてはwebで公開ページがあったはず。 http://pfeil.hp.infoseek.co.jp/ か。戸坂の『科学的精神の探求』という編集本が新日本出版社から出ている ということは、代々木には評判はいいんだね。今は知らないけど。 (翌日に訂…

松本彦太郎さんの『中国語と近代日本』(岩波新書・1988年)を暇をみて時を 忘れて読み耽った。傑出している(大体、近代の中国語学者は傑出している人が 多いんだが。それはこの学問の存立条件によるとおもわれる)。いろいろ疑問が 氷解した(倉石武四郎さ…

一昨日に引用した下村寅太郎さんだが、あのときは私はまだ下村さんが新カント派 の問題圏をどう処理したかを意識せずに引用したわけで、理解は半可通だった。 下村さんは西田幾多郎論を書いている。西田からの影響が濃厚であるわけで、そこを 私は無視してい…

昨日に続く。「宗教と科学」との関係、間、そういうものを問うている。 素人の問いである。 ○「原典主義」がプロテスタントのものである。それは儀礼 (それを所管するローマ教会)への批判をはらむ。一般に、「聖書 中心主義」ともいわれているが、しかしそ…

質を今以上に劣悪にしようと書いた途端に筆が軽くなってきたぞ。 清水先生の「ルーマンの社会システム理論」という小論(岩波書店の 「社会学講座」の第何巻だったっけ)に次のごとくあった。「観察」 Beobachtungの説明の項である。初心者に向けて書かれた…

しばらくは、去年の年末に読んだ下村寅太郎について、ここで 再録をするということで、御茶を濁す、ということにします。 引用中の「傍点を傍線にする」という表記は機能していません。 タグを知らないので、対策を検討します。 9/6に加筆。地の文と引用文な…

昨日から勝部謙造『ディルタイの哲學』(改造社・1924年)を読もうとして いたのだが、本日は全然、読むことができず。勝部氏の背景も分からず。 「序言」には、著者が広島居住であることは記されている。

模写論(懐疑論的独我論)⇔先験的構成主義(意味実在)⇔自己産出論(確信 論的独我論) ははあ。同一性・自同律のなかにも、「そうあれ」という命令があるわけね。 たしかにそうだ。そういう意味で、A=Aも人工的なわけか。(しかしそれを 一般者の自己発展と…

清水太郎さんの「カント学派哲学と大正期日本の哲学」(『現代思想』のカント 特集号に掲載されていたんだな)を再読す。いや、再読じゃねえな。ようやく それなりにきちんと読めた。こりゃすげえよ。これが二十代半ばのお仕事かよって な感じ。いきなり提灯…

科学とは、実験的帰納法、収集の方法なのだが、しかし新カント派はそれを 可能にする、前提としている、経験や感官そのものを自明にしていない。 ベンヤミンなんかもある意味、反科学のような姿勢がある。西田幾多郎にも 「法則」論があったな。反科学である…

こぶし書房から西田学派叢書が出ている。なかなかの充実ぶり、力の入れ方で ある。こぶし書房といえば、あの党派の出版局である。しかし右よりとも 取られる古典がそのまま出版されている。好感をもった。しかしその「好感」 はその党派の党派性とは何の関連…

反省意識のない仮象とある仮象。 勉強どころじゃない。

義理で。誘われて。右京区の、嵐山といっていい、芸能神社の(多分、 太秦の映画関係者が隆盛させたと思うのだが)、車折(くるまざき)神社に 参詣す。出発が昼過ぎだったから、本当はこの後に、大阪の日本橋近くの 生國魂神社にも行こうと予定していたのだ…

二律相反、それをそのままにする態度、そして決定にはどこまでも偶因性がつき まとう(よって責任が出てくる)とする態度と、二律相反はそれを綜合する、 高次元に移行できることにより、それを(暫時的にでも?)解決できるとする 態度と、ふたつある。これ…

務台理作ら『生命とは何か』 ここでの田宮博さんのいう「解析生物学」と「形相生物学」との二対は、分子 生物学と形態生物学との二対のこと。形態生物学を、分類学・「枚挙の生物学」 (柴谷篤弘)と言い換えてもよい。どちらも必要である(しかし分子生物学…

高山岩男『宗教はなぜ必要か?』(創文社・1953年) 宗教と科学が両立するというのか、その領域を侵犯しあわない関係を維持すべき であることは、私は誤解かもしれないが、下村寅太郎さんの科学史の叙述において 勝手に自得していた。ところが私は誤解してい…