質を今以上に劣悪にしようと書いた途端に筆が軽くなってきたぞ。
清水先生の「ルーマンの社会システム理論」という小論(岩波書店
「社会学講座」の第何巻だったっけ)に次のごとくあった。「観察」
Beobachtungの説明の項である。初心者に向けて書かれたもの。

このようなルーマンの認識観は、認識とは外界の模写ではなく、システムに
よる内的な構成であるとの点で、ルーマンが自らの理論構築、とりわけ「
意味」Sinn概念(Luhmann, 1984:92ff.=一九九三、九二頁以下)において
フッサールの超越論的現象学に強く依拠したことからもうかがえるように、
超越論的観念論のそれを継承するものと言えなくもない。だがそれが超越
論的観念論とはっきり異なるのは、認識を遂行するシステムが世界に内属
する経験的対象として考えられていることである。つまり、そこでは主観
\客観、超越論的\経験的といった認識の座標軸は観察の図式へと還元され、
システムによる世界の構成は経験的な区別に依存する偶発的(他でもありうる
)kontingentなものであるとされる。このような認識観を『社会システム
理論』以後の近年のルーマンは「構成主義」Konstruktivismusとして定式化
する(Luhmann, 1990a・b)。そこでは古代ギリシア以来の存在論が主題
とする「存在」の概念すらも、存在\非存在の区別による観察の結果へと
還元される。そして観察者を包括する世界は、存在\非存在の区別をも
超えた、「区画されざる状態」unmarked state(スペンサー=ブラウン)
として把握されることになるのである。


こうなると、つまり、1/11にまとめたトリアーデの図式にルーマン
理論は収まらないことになる。一般者の自己産出という点で似てはいる
のだが、それよりもさらに徹底化している。観察者抜きの理論ということ
になると、潜伏性(virtuality)の理論と類似してくる。