昨日に続く。「宗教と科学」との関係、間、そういうものを問うている。
素人の問いである。

○「原典主義」がプロテスタントのものである。それは儀礼
(それを所管するローマ教会)への批判をはらむ。一般に、「聖書
中心主義」ともいわれているが、しかしそこでそれを実証的に検証
する作業をはらんでいる。聖書中心主義はある意味では容易に聖書を
批判的に解読する態度に転化しやすいともいえる。これについて昔、
羽仁五郎を読んで気づかされたことがある。日本でいえば、記紀
批判的解読、などの文脈である。イスラームについては、どうなの
だろうか。そして聖書中心主義とはラテン語のそれではなく、翻訳
された民族語での聖書である。欽定訳聖書だとか。だからラテン語を
喋る大統領に憧憬があるということは間違いかもしれない。この点に
ついて、たとえばイスラームでは状況がちがう。ラテン語と違って、
正則(フスハー)のアラビア語は口語的であるし、大衆を寄せ付け
ないという性格をもっていない。むしろ積極的に、片言ではあっても、
正則アラビア語で聖書(アル・クルアーン)の一節を唱えることは奨励
されている。専門的知識人や法学者だけがそれを囲い込めるというわけ
ではなく、そこが開明的であり、大衆的であり、一般に差別が薄いと
いわれる点なのだろうか。
○ある人に教えられた。モスクでサラート(礼拝)をするとき、
イマーム(モスクの管理人)は一番前に立ってそれを先導するけれど、
あとの信徒は、その礼拝するときに、序列はない。昨日入信した人間が
格付けで一番あとに立たねばならず、二十年前に入信した人間が
先輩風を吹かせて最前列に並ぶ権利がある、とかは無縁なのだ。ここが
日本人の社会構造や社会原理と著しく違う点であり、ムスリムにとって
日本の社会の評判の一点の悪さがある。勿論、日本の社会のそれも
それなりの合理性はあるのだろうけど。ただし神の下での平等の徹底
とは、建前ではあるにせよ、結構、行き届いているのではないかとも
推測する。それはのちに規約や法の下での平等と世俗化される、と
いうことなのだろうか(これは実際のイスラーム社会の国家が全然
民主的ではない、ということと直接には関係しない)。私の推測では
ヨーロッパの秘密結社に、そうした神の下での徹底的平等性の原理は
輸入されているのではないかと思っているのだ。ギルドやツンフト、
大学の自治、など、である。

○『すると、第三の質問が来た。
「あなたは予言者を信じるか?」
「われわれは神を信ずるけれど、われわれの宗教には予言者という
ものはない。」
するとかれは、すかさず切りこんできた。
「それでは、どのようにして神の存在を知り、神の教えを知るのか?」
イスラムには、異教徒との論争のために、あらかじめちゃんとした
公式がこしらえてあるのだろうか。そう思うほどのあざやかさだ。
わたしは、仕方がない、
「わたしはわたしの祖先からそれを教わった。われわれは先祖代々
その観念をうけついで来たのだ。」
わたしは、自分の答えがあんまりみすぼらしく気が利かないので、
われながらいやになる。こんなものは神学ではない。
「その、あなたの遠い祖先は、いかにして神について知ることが
できたのか?」
もうだめだ。わたしが黙ったのを見て、かれはさらにこう言った。
「わたしはあなたの宗教における欠陥をついているのではない。
あなたの論理における欠陥をついているのである。あなたは、神の
存在を肯定し、予言者を否定した。予言者なしに、いかにして神に
ついて知り得ると、あなたは言うのか?」
もう処置なしだ。降服するしかない。
(中略)
この論争は、わたしの一方的敗北におわったが、わたしには大へん
ためになった。わたしはいくつかの教訓を得た。(改行)第一に、
イスラム世界における神学的訓練の徹底である。かれは、知能の
すぐれた人間だが、ひどい山奥の小さい村の坊さんにすぎない。
学校も出ていない。それが、こういうきちんとした神学を論争の
かたちで展開できる。これはやはり、ちょっとしたことだ。仏教的
世界では、あまりないことではないか。(改行)第二に、イスラム教
においては、予言者というものが論理的な必然性をもっているという
ことを、わたしははじめて知った。神を超越的なものとして考える
以上は、それと人間とを媒介する予言者は、論理的に必要なのだ。
(改行)第三に、予言者についてゾバイルが、「わたしはあなたの
論理における欠陥をついているのだ」といったとき、わたしはほんとうに
感心してしまった。わたしは、「論理」というものの本質をつきつけ
られたように思った。こういう意味では、われわれの考え方という
ものは、まことに「非論理的」である。自己批判の意味で言っている
のではない。「論理的」であるということが、いかにドグマティックで
あり得るかを言っているのだ。はじめから自分につごうのよい結論が
ちゃんと用意してあって、「論理」というものは、それを他人におしつ
けるための手段にすぎない。手まえ勝手のシロギズムである。この種の
論理の特徴は、他人を論破できてもナットクさせることができない、
という点である。つまり弁証法的ではない。この論争にやぶれたあと
でも、わたしのアニミズムはいささかの動揺も来していない』
梅棹忠夫『モゴール族探検記』=岩波新書・1956→1964年。
p.111-114)。
長い引用になったが、いくつか注釈が必要となる。「予言者」は
あくまでも「預言者」とした方がいいこと。さらに仏教もきわめて
論争的手続きをもっているのだし、そこのマニュアルは発達して
いるだろうこと、などである。/
なぜこの引用をしたかといえば、私もこれを読んで初めて預言者が
一神教に何故必要であるかを理解できたからである。だから一神教は
上記の論証にあるように、預言者宗教であるということもできる。
神のスピーカーが必要なのである。ただそこにおいて、誰が神の
スピーカーであるかを判別することが難しい。誰が預言者で誰が
イタコであるのか、どれが奇蹟でどれが魔術であるか。ユダヤ教
キリスト教(メシア教)、イスラームなどは、そこにおいて奇蹟が起こった
ことを人々が承認した宗教である(キリスト=メシア教はちょっと違う
点がある。神が受肉化することは、神が偶然に誰かをスピーカーに
選ぶこと以上の意味がある)。イスラームを信じるとは、ムハンマド
預言者であると認めることである(信仰告白のひとつ。「(アシュハド)
アンナ・ムハンマダン・ラッスールッ=ラー」。もうひとつは神は唯一神
であることを認めること。「(アシュハド)アン・ラー・イラーハ・イッラ
ッ=ラー」。イスラミックセンター・ジャパン『サラート』より)。ムハン
マドの驚異の言葉を神の言葉であると認めることである。ここが信仰の
分岐点である。/
ひろさちやさんと黒田壽郎氏との対談本(手許にないので細部については
曖昧だが)に、おもしろい箇所があった。イスラーム法(シャリーア)の
主要な法源は、第一にクルアーン、第二にハディース(預言者の言行録)、
第三にウンマ(信徒共同体)の意志(それの長期的慣習法)、などなのだ
が、キリスト(メシア)教にはハディースはあるのだが、クルアーンに相当
するものがないという指摘(ひろさちやさんの指摘だったとおもう)で
ある。このハディースは、なかなか面白いのである。「ムハンマドはこう
いうことを言った(行った)、と、(ムハンマドの身近にいた)〜〜は
言った、と、(〜〜の近くにいた)××は言った、と、(××の身近に
いた)△△は言った、と、□□は言った、と〜〜は言ったと申し伝え
られる」という構造になっている。民間伝承である。だから正贋のそれが
混合されていた時期があり、後に正しいハディース(伝承・報道)のみを
まとめた正本が大学者によって編集されている(小杉泰『イスラームとは
何か』=講談社現代新書)。ちなみにウラマー(学者)がクルアーンを朗唱
するときと、ハディースを朗唱するときとでは、まったく、いかめしさが
違う。前者を誦(よ)むときは、あえて非常にいかめしい。神の御言葉だ
からである。聴衆を威嚇する調子をもっている。畏怖をもって誦むので
ある。ところがハディースを誦むときは、前者と比較するとはるかに
リラックスした感じである(私の印象だが)。だから第一法源と第二法源と
の間には、かなりの隔絶があるのである。キリスト教にクルアーンがないと
いうのも、イエスに神が受肉化したことと関係しているのだろう。そこが、
神の言語(「新約聖書」はギリシャ語本、ヘブライ語本、アラム語本などが
あるそうだが)を直接に尊ばず、ローマ帝国語(ラテン語)で議論をしても
良いということと関係している(東方正教は違うだろうが。だからその
傾向は中世の西方スコラ学に限定されるのだろうか)。

○「構造(吸収性)はあるにしろ、根本的には偶発的なのである
(これはつまり世界は(追記:「それ自体としては」、と加筆したい)
道徳的ではないということは、道徳は自発的に建設されねば
ならないということなのかな)。ちょっと暗澹とする」
と書いたのは、もしかすると、次の文章が念頭にあったのかも
しれない。忘れていたな。
『全能のはずである神にも出来ないことがある。一つは「神を恐れる
こと」であり、一つは「人間の犯した罪を取り消すこと」である。この
二つは人間だけが担いうる責務である』
内田樹レヴィナスと愛の現象学』=せりか書房。p.143)
追記す。
いや
『「地上に倫理をあらしめるのは、「法理的公正」ではなく、「人間的
公正」である』(同前。p.272)
だったろうか。
いづれも私の誤読である(文脈をたがえて読んでいるから)。私の
一番に念頭にあったのは、『現代思想』1980年2月号「イスラムの世界」
での中村廣治郎さんへのインタヴュー(誰によるのだろうか。三浦雅士
さんだろうか)のはず。
「自由意志論を主張したのはムゥタズィラ派という一派ですが、彼らは神を
善なる神だと考える。神が善であれば、神が人間に悪をさせたりすることは
ありえないわけです。にもかかわらず人間は罪を犯し、義人が苦しんだり
する。これはいったいなぜかということを説明しなければならない。そこで、
人間は自由意志をもっていて、罪は人間の責任であると考えることによって
神を免責するわけです。(改行)しかし、正統派の考えでは、もしもそうだ
とすれば、神は人間の行為に関与しないことになり、神の力が普遍であり
絶対であり全宇宙的であることとそれは矛盾することになるから、それには
絶対承服できない。そこで人間の倫理的な責任の根拠がそれではいったい
どこにあるかという問題が重要になってくる。(略)。そこで、正統派が
苦慮して考えだしたのが、獲得理論という面白い考え方なんです。(改行)
それはどういう考え方かというと、神は人間の行為のすべてを支配している、
したがって人間のある行為をする場合も、それは自分の力であるけれども、
その力は神がその行為のためにつくったものであり、それを人間が獲得
するんだと考えるわけです。ですから、その人間が神のつくってくれた
力を獲得した以上、獲得したことからでてくる責任というのはあるのだ、
そう考える。(中略)。
(聞き手)---まるで現代生物学の偶然と必然についての考察そっくりに
なりますね。
(中村)それが正統派のアシュアリー派の神学理論になるわけです。
ですからこの獲得理論でいうと、因果律なんて考えられない。すべては
アトム化されてしまう。空間も時間も限りなく細分化されてゆく。そして、
そういう細分化された瞬間々々を、その都度、神が創造するということに
なるわけです。マルブランシュの偶因論なんかがそれに近い考え方では
ないかと思うんですけどね。(中略)。
私たちが因果律と考えているのはたんに神の習慣にすぎない。神は
その習慣をいつでもやめることができる。(略)
しかし、人間はそういう神の予定を知りえない。自分が行為してみて
はじめてそれが神の予定であったということを知りえる。(略)それを
人間が獲得したということになる。そうなれば、つまり、神の行為に
自分が参与したということになるわけですね。それは自分の行為でも
あるわけですから。こちらを選んだことによってある結果が起ったら、
それは神の予定であると同時に、自分の選んだ行為である。したがって
そこには当然倫理的な責任も生ずるというわけです」 (p.50-51)
難しい議論である。結果的にいえば神の意志を感じるにせよ
選択するときには、あくまでも偶有に曝されているのであり、そこに
責任が生じる。それはともかく、イスラーム創造論は、さきの説明に
あるように、ニュートンの理神論とは違う。しかしヒューム的ではある?。
ただそこまで徹底した汎神論であると、実験にたずさわる意欲も
なくなるのだろうか。私はほらを吹いているか?。郡司幸夫さんの
生命論(生命への実験論)と似ている気がする。生命を媒介として
実験したとき、たった一回の例外が本当に例外なのか、そうでは
ないのか、線引き(囲い込み)をすることができない、こういう推測が
かれの議論の要諦のひとつであると私は邪推する。単純に帰納する
ことができなくなるのである。養老さんもそういうことをどこかで喋って
いた気がするが。ある山にある昆虫がいるかどうかとかの話で。
ちょっと私が混乱しているな。イスラームにおける科学、そこに
停滞があったのか。あったとすれば、それは偶然なのか、必然
なのか。科学という概念すら生まれ得なかったのか。など。

井筒俊彦さん『イスラーム思想史』(中公文庫)をめくる。
全部、書いていた。でも、あの、質料と形相とかいう、アリスト
テレス以来の、スコラ哲学での議論の主題ね、難しいな。
内田先生のサイトに書いてあったことも書いてあった。
アヴェロエス(イブン・ルシド)の議論も。私からみても、井筒
先生の要約でのイブン・ルシドは、理性が勝ちすぎている。
アシュアリーが禁止した聖書の譬喩的解釈、アレゴリカルな
解釈をイブン・ルシドは哲学者にのみ許す。尤も、その議論を
馬鹿には見せるなというのだが(必ず誤解するし、かれらには
できないから。誤読しかできないから)。


追記:ベンヤミンのカバラ理解においても、神は一瞬々々において創造を
しつづけているという説を採っている。イスラーム神学とユダヤ神学とは
類似しているようである。