高山岩男『宗教はなぜ必要か?』(創文社・1953年)
宗教と科学が両立するというのか、その領域を侵犯しあわない関係を維持すべき
であることは、私は誤解かもしれないが、下村寅太郎さんの科学史の叙述において
勝手に自得していた。ところが私は誤解していた。私は宗教は実践理性、二律相反
の領域においてあると考えていたのだが、それは間違いであった。この高山著に
おいて端的にそれが指摘されていたので、目に鱗だった。つまり、宗教は実践理性
・道徳の領域に関心をもたない。善悪の峻別に興味をもたない。これである。
だから責任というものからも自由である(?)。だからこそ宗教は危険ではある
のだが。宗教(これは実際の教団などとは直接には関係しないのだが)は、正義や
政治からすれば、それはだから極度に悪たりえることもあり、善たりえることも
あるかもしれないが、宗教の側からすれば、そんな区別には意味はないのである。
そこに宗教の宗教たる所以がある。尤も、これは高山的な、西田学派的な宗教観で
はある。
「道紱による淨化と宗教による淨化とは著しく意味を異にするものである。道紱は
善惡の對立の内部に存するものであり、從つて、惡を滅して善のみにすることが、
道紱による淨化の意味である。然るに善惡相對の中にあり、善惡葛藤の中に動いて
ゐる限り、惡は一時滅せられても又生じ、惡が惡として消滅するといふことはあり
得ない。善が存する限り、惡がなくなることはあり得ない。そして又惡を倒して
も、惡人(ここに傍点あり)を救ふといふことは、道紱の立場では不可能なので
ある。この意味で道紱的淨化は遂に相對的なるを脱し得ず、人間を淨化するといふ
ことはあり得ないのである」(p.104-105)