記憶はあやふやで当てにならない、合理的でない、ということでタブーになって
いる。その結果生ずる、そして意識の中から歴史的次元が脱落するという形で
完成される知性活動の息の短さは、直ちに綜合的統覚の機能低下をもたらすので
あり、カントによればこの統覚は「構想力による再生」――つまり想起――
と分かち難く結びついているのである。想像力は今日では無意識の領分に属する
ものと見なされ、判断力を欠いた幼児期の形見ということで認識の縄張りから
締め出されている。しかしあらゆる判断の不可欠の源である客体間の関係は
ひとえに想像力によって打ち建てられるのであり、そうした想像力が排除され
れば認識行為の要である判断の方も体よく厄介払いされることになるのだ。
ところで欲望の触手である予見など一切認めない制御の機制が働いて知覚が去勢
されることになれば、知覚はいやでも既知のものを型通り無力に反復せざるを
得なくなる。既知のものしか見てならないということになれば、その結果犠牲に
なるのは何よりも知力である。生産至上主義が罷り通り、向うべき目標を失って
それ自身と外部権力の物神崇拝にまで身をおとした理性は道具としてさえそれに
つれて退化するのであり、その思考装置を専ら思考を妨げることに用いている
理性のテクノクラートに丁度お誂え向きのものとなるのだ。感情の名残りを
払拭された場合、思考に残されるのは完璧な同語反復(Tautologie)だけである。
  
  アドルノ『ミニマ・モラリア』三光長治訳。法政大学出版局p.181-182