科学とは、実験的帰納法、収集の方法なのだが、しかし新カント派はそれを
可能にする、前提としている、経験や感官そのものを自明にしていない。
ベンヤミンなんかもある意味、反科学のような姿勢がある。西田幾多郎にも
「法則」論があったな。反科学であるとはいわないが、科学を可能にしている
条件それ自体を自明にはしていない。


昨日、その、こぶし書房から出されている服部健二さんの西田左派論を
ちょっと立ち読みしていた。西田と田辺との対立点のひとつに、やはり有と
無との問題があるらしい。そして西田はそのあたりの事情を務台理作に書簡で
説明しているんだけど、務台に1935年あたりに弘文堂からヘーゲル論を上梓
していた。それは西田に捧げられている。務台のヘーゲル論が田辺のヘーゲル
論とどう違うのか、これまたトピックになりうるらしい。