http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20040720#p3で擁護なさっているようだが、しかし
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20040720#p2で規定されているところの、消費文明=
アメリカ的生活様式という固定に大いに疑問がある。これでは消費文明や享楽主義に溺れることは
それぞれの地域の人民が"漢意"に反して自発的に内在的に求めているところなのだが、それを消去
してしまってアメリカに敗れたからだ、アメリカ悪し、アメリカ憎しなどと勘違いを起こすことに
なる。#p3もその勘違いから逃れていない?。これについては私は坂口安吾風の生活や必要(「日本
文化私観」)概念を擁護したい。http://d.hatena.ne.jp/mkimbara/20040713#1089728589で空虚
だと断じたけれども。
American Way of Life*1にアメリカという名前がついていることは単なるきっかけにすぎない(と
一度は言わねばならない)。アメリカ人がそれを徹底化・方法化しただけのはなしで。またアメリカの
文化の影響は敗戦後ではなく戦前からあったものではなかろうか。有名な「近代の超克」の津村秀夫の
議論(アメリカとの距離のとり難さ)も、そこに由来するのではないのか。
勿論、アメリカ文化・文明のイデオロギー的性格を追究したいという動機はわかる。文化支配も
政治的性格をもっている、とくにアメリカについては。しかしその文化支配についての単純な態度
(迎合か排除かの二者択一が可能であるかだとか)は大変に危険な考えにつながる。戦中の馬鹿げた
考えと内実嘲笑されていたような、日本の日常語になっていた英米外来語をすべて漢訳したり日本語化
したりする愚につながりかねない。この手の「勇ましさ」には陥穽があると我々は直観するはずだ。
メディアについてはどう距離をとればいいのか分かりにくいのだが、実質的に、ポピュラー音楽に
おいて今なおアメリカ音楽は質的にダントツ日本より秀でているのであって、日本がそこから産業
として自立し独立していると主張しているところの製品の質がひどいことを考えれば、その文化支配
は大いに結構だとも受け取れる。それは屈辱的なんだろうか。あるいは物としての他者に出会って
いないか*2
また日本の文脈において、京都・大坂の鎌倉・江戸への文化支配は非暴力的な手段による馴化の
手段であった。現在なお、たとえば笑演芸などはそういう効力をもっている*3。勿論、アメリカは
暴力をもった上で文化支配をも持っているわけでそこは違うけれども、文化支配即マインドコントロール
という短絡には用心をせねばならない。下手をすると、反ユダヤ主義的志向(反ユダヤ主義はそれ
なりに「懐疑」=「啓蒙」への志向をもっている)につながりかねない。
これと関連するが、宮台先生のいろいろ思考を刺激する力論の、
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=145の、しかし、

即ち、冷戦体制後の米国流グローバル化を前にして我々が迫られているのは、「多様性ベース×
信頼ベース×社会ベース」の社会が良いのか、「流動性ベース×不信ベース×国家ベース」の社会が
良いのか、という価値判断だ。私はもちろん前者の立場を採っている。

という定式化もちょっと単純定式もちょっと単純化しすぎじゃないかなあと危惧をおぼえなく
はない。「流動性」という概念を私は複数的に捉えたい、という程度しか言えないんだが。

*1:theの定冠詞がつくんだな。

*2:私より上の世代が、http://d.hatena.ne.jp/tacarin/20040715でこう訴えられるのもよく分かる。「大袈裟なことを言う積りはサラサラ無いが、「洋楽」を聴く耳を持つ子供たちを育てるのが大切だと思い始めている。」。お節介なんだろうか?。いや、ある意味、悲惨だけれども。同日に追記。あるいは、http://www.wanet.ne.jp/~odajima/diary/040104.htmlの1/9にあるような、「音楽というより大きな枠組みが、それ自体丸ごと、全面的に衰退しているということなのだと思う。(改行)もっと言えば、音楽の低迷は、起こるべくして起きた必然なのであって、むしろ、音楽を過剰に重要視していたオレらの世代が、長い間勘違いをしていたというだけの話なのかもしれない。」ということも関連しているんだろうが。

*3:http://d.hatena.ne.jp/mkimbara/20040707#1089211424を参照。