竹田篤司『物語「京都学派」』(中公新社・2001年)。
西田・田辺の右派が「戦争協力」をしたということで公職追放にあったり、中心
から外れるなかで、田中美知太郎などに人事権が移行する。

梅原より二期上の辻村公一も、いまや京大では「自分で考える(Selbstdenken)の
哲学」は「全滅」し、「安全無事な哲学史が支配するに至った」として、大学院へ
入学せず、郷里の浜松に帰っている。(改行)京大哲学科の「再建」は、とりも
なおさず、「京都学派」そのものの「解体」にほかならなかった。あるいは、新
「京都学派」の発足ともいえる。
(p.216)

なるへそ。西田・田辺の系統は、今西・梅棹などになんとか残ったといっても
いいのだろうか。私自身、そこ(後者)から、西田・田辺に関心を持ったのだが。
実際、梅棹さんなんかは、私の私見だが、戦前から全然、転向していない。
一貫している(よくもわるくも)。ある種類、感服せざるをえない。
ちょっと話は飛ぶのだが、しかしどうしてもネグレクトできない問題があって、
梅棹さんにも石毛直道さんなどにも深いインパクトを与えている篠田統さん、の
ある嫌疑(731部隊の北支機関の責任者だったのではないのか、だとか、篠田さんの
文転の原因の「負傷」はそれ=感染ではないのか、だとか。篠田さんは大学者であり、
かれの文章は本当にすばらしいのだが)などは有耶無耶にはなっている。
九州大学の粕谷英一さんはそれを追究されているらしい。
http://behavior.biology.kyushu-u.ac.jp/kasuya/ima01.html
西北研究所の昆虫の生態の研究についても、731部隊との関連はあるのではないか
というある種類の推測(状況証拠)は成立する。