ところで、平岡正明の名著『日本人は中国で何をしたか』(潮出版社・1972年)
での731部隊についての記述のなかで、浪速書房の「近代戦史研究会編・吉永
玲子手記」の『人体実験の恐怖』(1970年)という書物が、参考文献として数え
られている(平岡さんはなぜかそれについて「信頼できる」と断言なさっている
のだが)。しかし、この書物はシリーズものの一冊で(他のそれについては私は
未確認)、そして中身を確かめてみると、731部隊についてのルポ(従軍看護婦の
回顧録)とポルノ(レズもの)小説とが渾然となっている、「いかがわしい」
フィクションである。ナラティヴの面でも問題がある。ただフィクションとしては、
想像力と構成力の面で面白いのだが。しかし、平岡さんはその中の「S中佐」
(諏訪中佐ではないかといわれているらしい。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/teigin.htm
を篠田さんと勘違いしている(平岡著。p.215)。ここは訂正する必要があろう。
ところで、フィクションとして、その「S中佐」のセリフ。

「私も胸が一杯だ。君たちと同じにね。昼の食事は控えておこう。悲しいことだね」
 S中佐の眼には涙が浮かんでいました。
 それは私たちにとつても意外なことでした。私たちはむしろ、気味わるさの方に
参っていて、人間的な同情などは、後になつていたからです。
(現在、私がS中佐を、絶対、帝銀事件の犯人ではないと断言するのは、この時の
涙を知っているからです。どんなに世の中が変ろうと、中佐は絶対、そんなことの
できる人ではないからです)
「悲しいことだ」
中佐はもう一度、そう言いました。そして私たち二人の顔を交互に見ながら、
「君たちには、このことについて、それぞれ言い分もあると思う。ここにいる人は、
石川中将以下、誰一人として、これをいいことだと思つている人はいないのだよ」
 私たちには、何と答えていいか分かりません。ただ、黙って聞いているだけ
でした。
「悲しいといえば、世界の人々が、この同じ地球上に住みながら、戦うという、
戦争それ自体が悲しいことだよ。私たちは、戦争という大きな歯車を遂行して
行く上には、いろいろなことをしなければいけない」
(中略)
S中佐は言いました。
「この兵器を人道上の見地から批難するのはやさしい。おそらく、戦争が終れば、
同じ味方の中からも、批判者は出るであろう。しかし、私たちはいま戦争をやつて
いる。戦争というのは、どうしても勝たなくてはいけないのだ。負ければ、歴史も、
伝統も、正義も、何も無くなる。どんな手段を使つても、勝つた方が常に正しい。
それが戦争なのだ」
 私たちはうなずきました。
(p.130-134。促音の「つ」は原文どおり)

なかなか真に迫っている。これが真実ならば、どれほど頽廃化しようが、「平和」
は「尊い」ということになりそうだ。「手段を選ばない」競争ほど悲惨・醜悪な
ものはない(一応、戦争国際法はあるんだけど)。