webで読めるもので次があった。忘れていた。
http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/%7Ectakasi/hatachi/ito.html

第二分遣隊は北海公園に隣接した赤煉瓦づくりの三階建ての建物を使用していた。
当時としては珍しくトイレが水洗だったのは昭和十六年(一九四一年)の世界大戦勃発
と同時にアメリカ軍の建物を日本軍が占領したものだったからだそうだ。隊長は
篠田統。伊藤さんは最初の日にこう訓示されたそうだ。
(略)
「・・『・・・人道的には、これからやることは使いたくないものなのだ。勝つ
ためには使わざるを得ない。最悪の場合は沖縄でつかう』」


梅棹さんの『回想のモンゴル』ではそこらへんをあまり包み隠さず、記されては
いるのだが。
1944年の5月?に内蒙古の西北研究所に行く前に北京に立ち寄って、篠田隊の研究所を
訪問していること。そこで何を目撃しているのかは記されてはいない。「北支派遣
第××部隊篠田隊」で階級は大佐相当だと。
二度目は、敗戦間近の1945年6月に篠田隊がやってきたことについて。

 六月に北京から篠田さんがこられた。篠田隊の隊長であるが、内モンゴル草原の
生物相調査にゆくという。今西さんとわたしは、これに同行することとなった。
(略)
 篠田さんは篠田隊の隊長だけれど、かれは陸軍文官だから、兵隊の指揮権はない。
しかし、完全な陸軍文官の制服で、腰には軍刀をつりさげている。毎朝、出発まえに
隊長として兵隊の敬礼をうける。(略)
 篠田隊のこの作戦の目的は、草原の生物相調査であった。とくにネズミ、ハタリス、
ナキウサギなどの齧歯類の調査であった。兵隊たちは、現地の人たちにネズミ類を
あつめてこさせるのが仕事であった。もともと篠田隊は、陸軍の防疫給水班の一部隊
であるから、こういう奇妙な作戦行動ができるのであった。(略)篠田隊長は
そういうところ(引用者注:各地の県公署や旗公署)を訪問すると、いつも軍刀
まえにたてて、おもむろに名刺をさしだした。名刺には所属部隊も軍の階級もなく、
肩がきにはただ「理学博士」とだけあった。
(全集版。「モンゴル研究」のp.59-60)

上のwebのインタビューによると「ノミに血をやるためのネズミ」ということに
なっているのだが。
(これらの「猜疑」が「色眼鏡」であると指摘する人はいるかもしれないが)。


勿論、「戦前」において国策を離れて生活などできやしないのだから、戦争
協力はせざるをえない。それは現在なお、あまり変わりはないだろう。しかし
ことが「crime against humanity」に関わるならば、傍観はしにくい。


2008年9/18に追記:
このときは(なぜか)わざと書かなかったが、篠田さんは
戦時中に、感染症にかかり(だったと思う)、身体を悪くし、
敗戦後は理学系から文転なさっているのだった。その文転後の
文章を我々はわりあい容易に読めることになっている。名文家
である。これほど含蓄のある日本語はなかなか書けない。
文理ともに秀でた人なのだが、ある疑いは私には消えないのだった。
その病気のことは、どこで読んだっけな。梅棹さんのどこかの
文章だったか、いや、違ったかもしれない。プロフィールに公言
されていたかもしれない。