正月にたまたま温泉宿で日経新聞を読んでたら、中村隆英さんの「戦後経済」の
回顧のインタビューが掲載されていた。とくに1965年(昭和40年)の公債発行に
ひとつのターニング・ポイントを見られていたと記憶する。
webで検索すると、1984年の国会大蔵委員会での竹下登国務大臣(当時)の答弁。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/101/1140/10105101140016c.html

そもそも最初オリンピックの翌年、すなわち昭和四十年の補正予算のときに公債発行に
踏み切りました。それは戦後最大の不況に対応するための対策として、建設国債である
のかあるいは特例公債であるのかわからないようないわばまさに特例債、こういう形で
発行した。その後ずっと経過をいたしまして、建設国債のよってもっておるその機能と
いうものは、日本経済がいわばニクソンのドルの兌換制停止、すなわちドルショックと
でも申しましょうか、あるいは第一次石油ショックの際、それに機能した財政上の措置
としてはそれなりに意義があったと思っております。で、第二次石油ショックという
もの、厳密に言えば四十八年の暮れから四十九年度、それで五十年度から特例債の発行
というもの、明らかに建設国債とは別の特例債の発行というものに踏み切った。そう
してその都度財政の節度はどこにあるかということは、当分の間というようなことに
しないで、少なくとも一年ごとに必要なものを国会で御審議いただくことによってその
節度を政府自身も自分の心に言い聞かし得る形で国会の御議論を経てまいりましょう、
こういうことで続いてきた。

1966年に労農派スターズ(大内、有沢、脇村、美濃部、内藤)による『日本経済はどう
なるか』(岩波新書)が出ていて、この公債(fiscal policyと大内さんは呼んでいる)
のことは大きな主題となっている。マル経による議論なんだけど、大内さんは「たとえ
19世紀の古い考えかもしれないが、健全財政で行くべし」と強く訴えていた。ブル
ジョワの考えとしてはそれ(資本の自助努力)が正しいのではないのか、と。しかし
それが出来なくなってきていることに、彼らの観点では、資本主義の脆弱化、矛盾の
蓄積をみている(しかしその解決の先送りをするとさらに矛盾が激化するので、
ここはブルジョワ的な考えで解決するべきではないかと主張している)。
「管理価格」という表現も見られる。当時すでに国家行政と資本とはそこまで
しがらみが濃くなっているというのか、一蓮托生というのか、密になっている。
しかしそれは望んでやったことではないのか。それを癒着とは呼ぶべきではあるまい。
ここでその密なそれが、1940年体制論のせいだなどという議論は出ていない。
んだが。
それだけ。