鈴木成高『世界と人間性』(弘文堂・1947年)
:失望させることがない。1930年代のプロブレマティックを棄てていない。鈴木さん自身が
明確に次のように書いている。繁体字簡体字にする。

殊に吾々にとつては近代は過去でなく未来である、問題であるよりもむしろ目標でなければ
ならぬとする考へ方は、敗戦後の日本においてとりわけ強いやうである。それは或る程度
まで真実であるに相違ない。吾々は近代の新入生ではあつても決して卒業生でなかつたことは
いまさらいふまでもない。だからといつてそれは、吾々がただ近代を信奉すべきであつて批判
すべきでないといふことの根拠にはならないであらう。(p.14-15)

吾々が文明の危機を欧洲人と同じ意味において云為することには意識過剰的な嘘偽が生ずる
にしても、物質的条件と精神的伝統とを全く異にするところの吾々が、近代文明の前途に
対しアメリカ人と同じオプチミズムを抱かうとすることも、またそれに劣らない嘘偽であると
いはなければならない。文明に対する借物のオプチミズムには、われわれが戦争に敗けたから
といつてしかく簡単に共鳴しえない。(p.15-16)

同じ時期に羽仁五郎が『ヒウマニズムと文化革命』(世界評論社・1948年)で鈴木のこの
著を批判しているんだが、あくまでも今から読むと、鈴木の近代批判が身近に感じられ、
羽仁のオプチミズム?に少々飽きれるところあり。西欧史についての考えがそもそも違うのだが。
敗戦による「転向者」の日本の前近代性を過度に強調していたのは、1932年テーゼの影響か?
とも思わないでない。
(私課題:ヴィーコ、クローチェと「歴史への主体参加」。羽仁と平泉澄との並行性を指摘
する議論ある模様なり)。