山本勝之助『日本を亡ぼしたもの』(此処ニテハ既述)ニ、磯部浅一手記
(獄中ニテ秘密裏ニ書キタルモノヲ極秘ニ外部流出サセ、大量ニ印刷シ
流布シタルモノ)ノ掲載アリ(『現代のエスプリ』「北一輝特集」ニ掲載
セラレタル磯部手記ハ亦タ先ト異別ナレバ、複数種アラン)。
主旨ハ次ナリ。
1:大臣告示アリ。更ニ戒厳司令部ニヨル警備命令ニヨリ、叛軍ハ正規軍ニ
戻レリ。ユヱニ二十九日迄ノ占拠アリ。
2:奉勅命令ハ下達サレテヲラズ。
3:北ト西田ハ此ノ決起ニ何ノ関係モナイ。彼等ヲ殺スノ非道限リナシ。
以上ガ核ナリ。(北ト西田、数日前ニ計画ヲ知リケルガ、参画ハセズ。
タカダカ、通報セザリシ罪ノ程度ナリ。生贄トシテ選バラル)。
我、コレヲ最初ニ読ミケルヲリ、強弁ヲ感ジタルガ、実情ハ不明ナリ。
皇道派首脳、香椎戒厳司令官トノ呼応アリヤ否ヤ。首脳、天皇ノ怒リヲ
眼前ニシテ変心(変節)シタル乎?。
下記
http://www1.ocn.ne.jp/~syowa/A114.htm
詳シケルガ、我ノ印象トハ大イニ違フ。
磯部ノ言正シキモノアリ。戒厳下警備命令ガ謀略命令ナラバ、国軍(彼等ノ
皇軍)ノ命令ニ虚偽ガアルコトモアルトスレバ、国軍ノ紐帯ヲ壊滅サセルモノ
ナリ。以下(原文ノ繁体漢字ヲ日本簡体字ニス)。『日本を亡ぼしたもの』ノ
p.299-300。

私共は、北・西田両氏から云はれたので二月二十九日迄四日間も頑張つた
のではないですぞ。戒厳司令部から三宅坂附近を警備せよと命令されて
いたから最後迄頑張つてい(ママ)たのです。然も最後迄所謂奉勅命令は
下達されなかつたのです。(略)。軍部が青年将校の行動を認めたことは
確かです。認めたればこそ三宅坂附近一帯の地区を警備させる戒厳命令を
下したのです。然るに彼等は(略)、青年将校を静らませる為に謀略的に
命令を下したのだと云ふのです。命令に謀略があると云ふならば皇軍は全く
乱れてしまふのです。総ての命令が駈引を有してい(ママ)るならば命令の
権威はなくなり、命令に服従するものはなくなります。此れは恐るべき
皇軍の破壊です。

私は「吾人は反乱をしたのではない、蹶起の初めから終りまで義軍であつた
のに反乱罪に問はれる道理なし、義軍である事は告示に於て認め、戒厳軍隊に
入られた事によつて明かになり、警備を命じられた事によつて明々白々では
ないか」と強弁しました所が、法務官の奴等は「君等のした事は大臣告示が
下る以前に於て反乱である」と云ふのです。これは面白いではありませんか。
私は次の様に云つて笑つてやりました。「左様ですか此れは益々面白い、
大臣告示が下達される以前に於て国賊反徒であるといふ事がそれ程明瞭で
あるのになぜ告示を与へたのです。国賊を皇軍の中に入れたのは誰ですか。
大臣ですか、参謀総長ですか、戒厳司令官ですか。国賊を皇軍の中に陛下を
欺して編入した奴は明らかに統帥権の干犯者ではないか」と、そしたら法務官
なる奴は「何しろ中央部の腹が決まらんからねえ君」と云つて、ウヤムヤに
退却をしました。この事は公判廷に於て特に強くやりました。

此レハ磯部ノ主観ニ過ギヌカ?。
戒厳司令官ハ名ヲ捨テテ実ヲ取リタルカ、併シ名ヲ捨ツルノ犠牲重シ、
重クテモ併シ実ヲ救フガスベテナリ。行為ノ評価ニツイテモ小田原評定
香椎ガドノ派閥タルカ、忘ル。
磯部ノ言ヲ文字通リ採ラバ、国軍ト叛軍(元・国軍)相咬ミアフヲ
齎ス則ハチ善キ判断トナレリ。深刻ナル傷跡ヲ国軍史ニ遺スコト二
ナル。


写真ハ林八郎氏揮毫。1914年生マレ。事件時ハカゾヘ23歳ナリ。