http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2004/03/08205940.html

デリダとガンダムを一緒くたにするなよとは思ったが

これが常識である(八束さんについては『空間思考』というものに目を通した
ことがある)。
私は1970年生まれだが、思春期にあったのはただただ貧寒であり、同世代も
青春もなにもない。没落する神戸経済のなかにいたからという特殊的な理由か?。
世代を語らないと発言することがすでに語っていることになるのだが、「世代
について語らないことが自分の世代の矜持」というようなことを、どなたか、
はてなdiaryで書かれていた。かれは1970年生まれだった。偶然とは思えない。
それなのに、1971年生まれの人が世代として固まって何かをやろうとしている
らしい。それはそれで勝手だが、なぜ、こうも違うんだろうね。私からみて
ただただ恥ずかしいものでしかないものを彼らはむしろ誇っている(ように
見えてしまう)。
http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200401/index.html
浅田彰の「どうも最近の人――とくに若い世代は、異常に同世代を意識して
共感したり嫉妬したりするんで」というのは東らへの言及だろう。非常に
迷惑な話だ。自戒としたいが)。
(勿論、チンピラと超エリートを同一平面に語るのは馬鹿だが。かれらも
官僚になれたのに、あえてドロップアウトしたために、こんなひどい扱いを
受けている。偉いといえば偉いし、気の毒ではあるのだが。比叡山から降りると
我々のような道義のない野蛮人から同類扱いをされてさ)。


私はそもそも「動物化」という言葉もそんなに使いたいとは思わない。動物という
言葉にデリダの議論を背景にしているらしいんだけど、そもそも動物化のあとの
スノビズムが、東さんという人においては、スノビズムのあとの動物化と順序が
転倒されて使用されている。それを可能にさせる理由については模糊なもの
だったと思っている。恣意的な議論ではないのか。動物化とみられるなかには
主体の消去があるのであって、全体化社会の議論のなかから見る方がいい。
1930年代に新鮮なものとして全体主義は把握されたのだが、なぜ、むしろそれの
崩壊期に真に全体化が現れたのかというところが私にとっての現代の謎である。
アメリカですら同質化・全体化が現れたとF・ジェイムソンというアメリカ人も
喋っていた。私自身も「ポスト・モダン」といわれる現象の実在については
認めるところはある。しかしなにもかもいろんな現象がそのままポストモダン
必然不可避なんて粗雑すぎる。(蓮實さんは、それを「スターリニズム=大衆化」
と比喩として表現していたんじゃないの)。


しかしなんだか、俺も勘違いひどいね。悪がらみだな。嫉妬かね。
3/1に書いたことを解説したつもり。言い訳はすまい。