私はとにかく流行に疎くて。老化するとそうなる。
北田さんという今、嘱望されている人のサイトに次のようにある。
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040210

だから「アウラがあって、それを反アウラ的機能を持つ複製技術が消して
いった」のではない。複製技術が、そのものとして「アウラアウラの喪失」と
いう観察図式を作り出していったのである。(改行)アウラを実体視しその再興を
図る解釈学的な「政治の美学化」が、こうしたアウラの歴史的本質を見逃した
ものであることは言うまでもない。

違和感がある。同一性のようなものに依拠することなく、ほんとに民間伝承
なんてあるの?と問いたくなる。前近代というふうにされてしまうかもしれない
が、日本の演芸の出し物なんてものも、たえず、勝手に過去の素材をとりあげて
同一化して語っている。神話化ではあるが、それを「ファシズム」としていい
のか?。こういう批判はデリダの音声中心主義批判とどっかで似ているような。
こういう憶測は馬鹿の投機=思弁であるが。しかし日本でデリダの音声中心
主義批判って有効なのかな。エクリチュールの形態があまりに違うのに(また
聖書文化もないし)。私は一時だけだけど、神戸のモスクでアラビア語を学びに
行っていたんだけど、そこでコーラン(アル・クルアーン)の講習を受けた。
今でも十頁ほど暗誦できる。その教育法は完全に口移しのもので、意味などどう
でもいい、とにかくまづ暗誦できるように復誦を叩き込まれるというもの。

余談めくが、暗記について考えてみたい。(改行)アラブ文化では、今日に至る
まで、暗記を尊び、記憶力の優れた人を知力の優れた人と見なす傾向が強い。
クルアーンは全部覚えているのが美徳であるし、ハディースも多く諳んじている
と尊ばれる。(略)。アラビア語では書かれた文字ではなく、「音」としての
言葉が重要である。客観的にそうであるのみならず、文化的な意識としても
そうなっている。(略)。もちろん、イスラーム世界でも学者は文字や書物と
暮らしてきたのであり、無文字社会だったわけではない。しかし、音が主、
文字は従である。師弟の相伝も、口頭を書物以上に重んじる。したがって、
アラビア語のように音に重心がかかった文化では、文字の形に重心がかかった
文化とはコミュニケーションの質が違う。「暗記」の仕方も違う。(略)。
日本では、文字の読めない知識人は考えられないであろう。文字が読めることは
知識の絶対的前提といってよい。アラビア語の世界では、そうとは限らない。
その一例として、現在のサウジアラビアで法学者の最高位(大ムフティー)の
職にある人物(ビン・バーズ師)が盲目であることを挙げてもよい。彼のような
存在は、クルアーンハディースが耳で聞いて覚えても十分マスターできる
からこそ可能となる。つまり、「耳で聞き、暗記する」という文化伝統の重み
である。(改行)この文化の違いについて強調したのは、現代の研究者がこの
点を見過ごしがちだからである。欧米でも同じ間違いを犯すことが、近年よく
指摘されている。欧米の諸語はラテン文字を用いる点では表意文字の漢字の場合
とは違うが、それにしても近代文明は書き文字偏重であり、特に研究者は文献
重視である。その目からすると、ハディースなどがある時点まで「口承」で
伝えられたということは、内容に信憑性が置けない、と感じられる。そのため、
ヨーロッパでは、真正と区分されているハディースについても、信憑性を疑って
かかることが多い。(改行)それに対してアラブ人は、自分たちが耳から聞いて
覚え、伝えることにどれだけの能力があるか知っているから、それに照らして
信憑性のあるハディースとそうでないものは識別できると考える。ハディース
捏造について論じたように、偽のハディースが生じたのは意図的な捏造が主因で、
口承のために内容があやふやになるからではない。(改行)イスラーム以前の
時代の「詩人の時代」にも、アラブ人は耳で聞いた詩を暗唱してアラビア半島
に流布させていた。ハディースの流布はその延長上にある。
 

小杉泰『イスラームとは何か』。p.138-141。講談社現代新書・1994年

なげえ引用になっちゃったが、実際、私が口承芸能、浪曲や落語に興味をふたたび
持ったのも、このクルアーン講習の刺激がある。勿論、浪曲や落語は純粋な口承
ではない。いろんなテクスト、たとえば中国の笑い話などの典拠からの影響は
あるにせよ、しかし相伝のなかにおいては口承は主である。身体性というものが
媒介となる。だから私は直接性を持ち上げているわけではないんだが。こういう
視点からみると、一緒くたにすることになるかもしれないが、柳田國男さんの
口承論なども、ひろい地域から再思考することができる。川田順造さんも柳田の
一国民俗学がむしろ世界民俗学に拡大できると喋っていらしたが(『國文学』の
柳田國男特集。1993年)。川田さんの御仕事の総体を知らないが、無文字社会
いわれるなかに運動連鎖としての身体性が文字の機能をもっているという主張も
あったように思うのだが。
ひどく話が逸脱した。ベンヤミンの歴史意識って難しいんだけど、初期の
アレゴリー、メランコリーの意識が、後期のマルクス主義転進(そもそもそれが
何故なのか分からない)にどう維持され変化されてるんでしょうか。専門家に
聞きたい。私は正直、後期のベンヤミンがよく分からない。アウラというものを
なんらかのかたちで信じないと、その統整性(原語は何?。関係はないのだが、
regulationという言葉も、もともとは統制だったのに、最近は規制になって
いるし、制御ともなっている。経済統制の話と、Regulation学派のはなしと、
deregulation、規制緩和の話、ばらばらになっている。なるべきなのか?)
を当てにしちゃあ、駄目なのかな。私は、アウラにしろ、リアルにしろ、それを
他人に全体化しようとしないかぎり、無害だと思ってるけれど、どうなんだ
ろう。(ベンヤミンのメランコリーとフロイトのメランコリーとの比較。北田
さんの近日論文って、そういうことが書かれているのか?)。


時代小説、歴史小説も、同一性に依拠してまあ害はあるかもしれないが、
幻想の共同体、想像の共同体を強化するかもしれないが。しかし「想像の共同体」
がプリント資本主義から生まれたって、東南アジアの専門家が、世界のすべてに
ついて敷衍できんのかね。知らずにいうのだが。そもそもそういう想像の共同体
の何処が悪いんだ。ないよりはましだよ。そういうものがないところをそもそも
想像しないといけない。「根底の不在」って柄谷もたしか昔、韓国をもちあげた
ことがあるが(指摘にとどまらず)、そもそも韓国が「根底の不在」に苦しんで
いることに思いつかない。結局、無責任な物言いだよねえ。

有史以来、否階級社会が初(ママ)まつてこのかた、意識して悪政・虐政を
喜んだ支配者は絶対にいない。桀・紂やネロといえども、彼ら自らは人民共の
幸福のためを思つていたのであろう。歴史を読んで私達が心から戦慄を感ずる
ことは、流れ動く時代と社会は、個人的な善意や努力を越えて遥かに強力で
あるという事実だ。定着した社会には必ず腐敗が生じ、その腐敗を改めようと
する胎動も、また必ず発生する。善意ある領主達にとつての不幸は、彼ら自らの
努力では如何ともし難い時期に生れ合わせたことだ。しからば個人の存在は
必然の前に無力であるのかと、開き直られては私も困る。たしかに時代は百姓
一揆勃発の条件を整えつつあつたが、しかも破局だけは開避(ママ)し得た
藩領も多かつただろう。だが、そのために封建制社会の崩壊を防ぎとどめること
ができただろうか。同じく最後の大破局へ向つて突進したことにおいて五十歩
百歩である。


  赤松啓介『兵庫県百姓騒擾史(一揆)』。「はしがき」から。庶民評論社・
  1956年

公式的マルクス主義だけど、「たそがれ清兵衛」だとか、その類を見ていると
上のような言葉が思い浮かぶ。もっとマクロでみて欲しいね。勿論、それが
主題ではないという返しもあるけど。


しかし私は梅棹忠夫の種社会論・関西独立論と黒田俊雄の権門体制論(顕密
仏教論)を勝手に野合して消化不良を起こしている人間として、歴史小説・
時代小説、そういう表象の映像化(映画、TV)において、武家官僚社会ばっかが
採り上げられていることに、前も書いたが、不満なんだなあ。中世延暦寺
下級僧侶だとか、京坂の商家のはなしだとか、そういうものを主題とする
通俗小説すら、ねえからね。いかに東京中心主義だけがあるかという。私の
ルサンチマンだわな。奴隷の言語か。しかしそもそも俳優がまともな柔らかい
だとか、ぞんざいだが味があるだとかの色んな関西弁に対する感性を喪失
しているから(それこそ喪失だ。現実の喪失なんだよ。資本主義の動向のなか
でね)、余計にひどくなるか。ない方がましかね。関西弁も、四国を悪くいう
つもりはないのだが、最近は四国弁化されているんじゃないかと私は勝手に
思っている。差別意識かな。ま、事を荒立てて、何かがあらわになれば、
いいか。これまた無責任な。


川北稔さんの『アメリカは誰のものか』というウェールズ論において、対抗
言説は神話化され、再生産されているから、心配しなさんなということだろうが、
しかしね。


ええと何の話だ。
啓蒙っていっても、当然、複雑で。表象は一回きりで啓蒙をなしえるなんて
思っちゃいけないわけで。私は啓蒙を肯定も否定もしないし、だから反啓蒙でも
ない。そもそも私は内包しか興味をもっていない。だから訳は分からんだろ。
時間意識のことばっか語ってないで、知識人はほんと、移動、比較して、空間を
視野に入れて欲しいね。そうすっと、内包と外延との対応関係がどんどんずれち
まって、齟齬をきたし、・・(以下、略)。私が後進国からきた留学生の
ような気分で日本を語ると、日本人はそれを右翼という。なんちゅーこっちゃ。
もっと身をねじれ。苦労が足りんよ。


大体さ、日本回帰って、なにだね。日本回帰を右傾とすることは、逃避じゃんか。
何処に住んでも、現地の社会構造が分からんやつは、なにも分からんよ。日本人は
そもそも日本研究するのに有利なのにさ。日本に長期滞在できる。当地語の日本語
が(それなりに)できる。まあ、日本以外を知らないと比較の観点がないから
日本を異化することができにくいという欠点はあるけど、これほど有利な位置に
ある人間がさぼる。非常な厚みのある時間を直視しえない。こりゃ、アメリカ
行っても、フランス行っても、アフリカ行っても、駄目だね。説教じみるん
だけど(たしかに嫌な道徳臭はあるな)、これは実感でね。現住所を客観視する
努力がないと。


狂人の繰言になった。ま、いいや。


翌日の