○徳永恂氏『ヴェニスのゲットーにて』が講談社学術文庫ヴェニスからアウシュヴィッツへ』
として文庫化。前半の欧州旅行記(ユダヤ”人”の足跡訪問)、後半の秀稿「マルクスと反ユダヤ
主義」。外れなしの高著。同じ講談社学術文庫の名著『社会哲学の復権』が徳永前期?を象徴する
ものならば、『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』は後期?を象徴する。
○今朝の朝日新聞書評欄に佐柄木俊郎氏が海野福寿著『伊藤博文と韓国併合』(青木書店)を書評。
以下佐柄木氏の表現からは外れるが、伊藤は山縣有朋桂太郎、寺内正毅などの陸軍閥(伊藤と同じ
長州閥だが)などの併合論とはちがうヴィジョンを持っていて、朝鮮人からすればまだマシであった
という。そのマシなものを殺さざるをえない悲劇というか。小室直樹氏がカッパ文庫のシリーズで
安重根について触れていたが、安の檄文*1は論理整合的なものだという。当時の日本人もその安の
人となりには甚(いた)く胸を動かされたと言い伝えられている。佐柄木氏は伊藤が生きていれば
朝鮮統治は?かなり違ったものではなかったというようなことを書いているのだが、どうなんだろうか。
村松剛対談集(『日本文化を考える』だろうか?)に伊藤真一氏(博文の「庶子」*2)へのインタヴュー
(1978年)がある。以下(p.44)

村松 博文公は、統監をやめてから、ハルピンで撃たれて亡くなりますが(明治四十二年十月二十六
薨去)、朝鮮併合には反対でいらしたようですね。
伊藤 もちろん反対でした。曽禰荒助に絶対阻止せよと命令し、曽禰が一人で頑張ったんですが、
寺内(正毅)にやられてしまった。そのとき私は朝鮮にいたからよく知っていますが、ひどいもの
で村落一つに菜切包丁一つしか渡さない。危いからといってあとはみな没収です。それから、日本人が
土地を買うと縄を張って、その次の日にはその張った縄を大きく拡げてしまう。おやじは、朝鮮人は
けしからんと言うやつがいるが、日本人のほうがもっと悪いぞと怒っていました。日本から、
こすからい、悪いやつがたくさん朝鮮へ来ていました。
村松 当時の博文公の力をもってしても、日韓のあの形での併合は防げなかったのですか。
伊藤 おやじは、朝鮮王室と日本の皇族の親類関係をつくりだし、友邦国家に朝鮮をしたいと考えて
いたのです。しかし寺内が勲章欲しさに併合してしまったのではないですか。
村松 博文公が当初考えていたのは、軍事権、警察権だけは日本が握るという形ですね。
伊藤 そうでした。

*1:8/23記。檄文ではない。次のページが参照参考になる。http://www3.netwave.or.jp/~go-kumon/mizobutitakao.htm。しかし私はこの検察官の論理、朝鮮人からすれば詭弁だが、そちらに感心もする。正当化の詭弁であってもそれが論理を仮称するかぎり論理で追及することは可能なのだから。

*2:8/23記。井上馨に籍を削られたわけで、正確には庶子ではない。井上は自分の甥を博文の嫡子にしたとは真一氏の言。