有名な方々だから、私がとりあげるまでもないのだが、
http://d.hatena.ne.jp/solar/20040824#p3

しかし柄谷行人の「影響力」もまた、この手の「或るエクリチュール」による
ものであり、実際にそこでなにが書かれているかは問題ではなかったのではないか。
じつは僕は前からそのように考えていた。

「〜は(普通思われているような)〜ではない」「しかしその理由は、〜でもなければ、
〜でもない」「じつは〜は〜なのである」「〜ということではない」「むしろその逆で」
「〜なのである」「ない」「ない」「ある」「ない」……。

柄谷行人の文章は、ほとんどすべてこのようなエクリチュールの執拗な繰り返しによって
成り立っている。

啓蒙される。
(同日に加筆。勿論、こういうレトリックについての他への指摘は、当然、我々にも返ってくる
ものではある)。


http://d.hatena.ne.jp/solar/20040817#p1

話を三島由紀夫西尾維新に戻すと、彼らの作品にはそうした「場面の細部」や「場面と場面の
つなぎ」の“感触”といったものがない。先験的なイメージにもとづいた「書割り」なり「シチュ
エーション」はあるけれど、それが生き生きと躍動していったりは決してしない。この「しない」と
いうことにも理由があるので、それをもって三島由紀夫西尾維新の書くものが「小説ではない」と
までぼくは言わないが、少なくとも保坂さんが「小説」と呼ぶものと、彼らの書くものは違う。


http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20040814#p2

1999年頃"当時"大月隆寛氏はわたしを含む周囲の人間に、つくる会内部で小林よしのり
急速な右旋回をどうにか舵取り修正しようと苦労してるが、会内部の人間関係が難しくうまく
行かない、と困惑を吐露していた。

(引用者:小林は)勢いづいて当初の「ミクロな人間観」より、「大東亜戦争亜細亜解放戦争で
日本は正しかったのだ」という大局的な大文字イデオロギーの方に大いに比重を傾けてしまった。



http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/20040621#p1
http://d.hatena.ne.jp/d-sakamata/20040727#p3
この人はいつも渋いね。


id:sujaku氏(しかしなぜ「食」に興味をもつのか)も含めて、みな「記憶」「忘却」にこだわって
いる。(私も含めさせて頂いて)なんらかの症候(必要な?)なのだろうけど?(勿論、状況も
ある)。蓮實のデュ=カン論(記憶にこだわって都市論を書いた)なんかを思い出さないでもないって
ツッコミを入れる人もいるのかもしれない。