現在のcul-stu(カルスタ)からすればツッコミはいろいろ入れられるかもしれないが。
太字は引用者による
『浪曼者の魂魄』(冬樹社・1969→1971年)から「浪曼者の魂魄」より(p.14-15)

が、東国の人間であるわたしには、京都奈良のほうから匂う閑雅をしたうというこころがある。
だから、恋闕なんぞというこころは、東国人にしか判らないのではないかという気持がある。
たぶん、西の開けた国の人である保田与重郎なんかより、自分のほうがよく判っているのだという
矜持もひそめている。(中略)。保田与重郎は庶民が百人一首をとって遊ぶ風を大事にしたいと
いったことがある。わたしも百人一首がこの頃あまりはやらなくなって、少年男女がトランプや
麻雀のわざにばかりくわしいことを何か物哀しく思うものだ。(略)。百人一首を尊ぶ精神は、
天皇を神に祀りこめるこころではない。残念ながら東国の辺土には欠けていた、典雅優麗をあこがれ
したうこころである。そして百人一首のなかでは、天皇も関白も乞食坊主も男性も女性も同列なのだ。
よい歌はよいのだという基準以外に何もないのである。
*1わたしは百人一首は、革命期の所産だと
信じている。(略)。百人一首を低くよどみ流れる声で誦(づ)してゆくというようないとなみ
ひとつとっても、ズーズー弁のなかで育ったわたしらは、こういうところから日本人の精神革命は
始まり、今日まだけっして完結なぞしていないのだと知る。


『浪曼者の魂魄』から「現代短歌とナショナリズム――ある試論」より(p.108-109)

民族は、人類社会の実現まで止揚し得ない。しかし民族の理念は止揚しようと努め得る。そして
止揚とは単純否定ではない。

短歌の過去におけるナショナルな傾向を指摘する者がいると、そのことだけで、多くの歌人は
グウの音も出ずに、いちじくの木に首を吊ったユダのようにうなだれてきた。たしかに、戦後の
小説や詩の有名人にくらべて、有名歌人(故人を含む)は戦争讃歌を作りすぎたかもしれぬ。
が、彼らは同時に戦争悲歌も作っていたし、だいたい歌を作ることによって、どれほどももうけず、
どれほどもひとを死なしめず、どれほど己れをごまかしもしなかったように思う。歌はそうそう
人間をあざむかなかったのではあるまいか。歌という形式が、民族の心情に即して作られるという
当然の営為が、ただちにその時々の政治が要求する国家道徳に追従する結果に陥るにちがいない
という認識は、明治以来の誤解に基づいている。そういう恐れをいうなら、どんな芸術もどんな
学問も、時局に追随し、芸術・学問たるを失う危険をもっている。精神営為とはそういうもの
である。そして、今日、こんなことを歌っていても抵抗にも反体制にもならぬのではあるまいか
なぞという功利・利口の論理・倫理が、もっとも低質な追従につながるのである。

ここらへんは誤解はされやすいかもしれないが(「歌は欺かない」だとか「民族の心情による当然の
営為」だとかは)、そうそう、悪意でもって媒介性抜きの直接性の吐露としての短歌などとレッテルを
貼ることのないように努めたい。

*1:ここを太字にするのは、女房文学は王殺しに向かわないとするスガ某へのある種類の嫌がらせである。