水害が起こったらただちに長岡で大地震が起こり、落ち着かない。
3/5のここの日記で「乱の年」になるんじゃないかと書いたのだが、自他について
当たってしまった。変わり目なんだろうね。
最近、四六時中、将棋について考えている。ある意味、根暗でオタッキーで女にもてない
ともいわれているこの競技についてなぜこんなに今更ながらにはまってしまったのか。
将棋以外の書物についても全然読んでいない。暇さえあれば「名人」の棋譜を並べている。
ゲームとは大抵が民主性を示しているところあり。お互いが対等の条件で物事を開始する。
しかし将棋はその条件が他のチェスや象棋などの親戚*1に比しても、対等性が際立っている。
どんなに下手であってもそれなりに相手の玉に迫ることができる。格下に対して堅実に
勝てるようになれば棋力は上がっているとみてよい。また別にいえば将棋においては理想的な
勝ち方は一手勝ちである。それ以上に何手も余そうとすると却って足を掬われることになる。
ここが将棋の不思議なところであり魅力ともなっている。あえて強弁すれば、否定的弁証法の
度合いが強い。同一性のなかの否定的媒介(そこに連続性があるのか切断面があるのかは
ずっと議論の対象となっているのだが)が強い。それはつまり獲り駒を任意に打ち込める
ルールのせい(誰が発案したんだろう。天才か?)である。それによって詰め将棋などの
遊戯も生まれる。このルールのせいで、駒と駒とのコラボもまた際立つことになる。単に
他の親戚の将棋の位取りだけでなく、捌き合いということがでてくる(その捌き合いは
40駒の間のpermutationであるから、そこに偶然性が入っているのかもしれないが?)。
米長さんは将棋的思考と和算関孝和)との間になんらかの親縁性があるのではないかと
推測・直感なさっているのだが*2、将棋がある意味、演算(の複合)であることは間違いない。
プロ棋士とは、その演算の本質に迫りたい(棋理を明らかにしたい)と取り憑かれた人々
である。最終的には将棋の「設計者」の意志に近づくのだろう。
将棋指しの著書などにおいては、要請上ではあるが、盤上のことを安易に盤外のことについて
比喩やメタファーとして使用されてしまう、あえていえば、イデオロギー性もあるんだけれども、
それを盤上や棋理に限定すれば当然、金言であり、素人には身に沁みるところあり。
升田幸三さんの『歩を金にする法』(小学館文庫)歩を金にする法 (小学館文庫)
より。ネタばれ注意。

十人が十人、手を出そう、出そうとしているうちに、時期がすぎてしまうということが
ある。
将棋の場合でも、カンというか、決断というか、いまやるべきだ、とカラダで司令するもの
がある。それを頭で分析して、納得して、数字がでても、もうおそくなることがある。
正確を期したいために、まちがいをおこしたくないために、躊躇していると、たいへん時期
おくれになることがある。(p.101)

初心を忘れ、力のないものほど、余分なもの、自分の力で消化しきれないものを大事に
かかえこんだりする。消化力もないのに、ナギナタも鉄砲も、一応ほしい。刀も何十本も
ほしい。力のよわいものほど、こういう要求をする。
金にたとえると、余分な金、余分な生活費がほしいということになる。
上手になってくるほど、消化できる程度しかほしがらない。自分の活用できないものまで
要求しない。
駒をうんともったときはおくれている。(略)
僕はいつも、足りない、足りないという感じをもちながら、そういうところで仕事を
してしまう。(p.35)

ほとんどの勝負というものが、自分が勝つんではなしに相手が敗れる。相手が勝つんでは
なく自分が敗れるというものです。ということは手伝うということをやるわけです。
敗(ま)けるように自分が手伝ってしまう。こちらが勝てば、敗けるように向こうが手伝う。
そういうところがあるものです。ひじょうにおもしろい。(p.197-198)

くろうとの失敗というのは形勢がよくなった瞬間によくやる。アマチュアの失敗というのは
悪くなったときによくやる。(p.198)

伸びきった姿の厘毛のところへきた太刀先は恐くない。けれども伸びる余地のある二尺の
間とか、三尺の間のほうが恐いわけです。それが伸びたときに体に当たるわけですから、
そういうものを見つめる修練が大事です。それと知らないために、もう五寸のところにきて
あわてたりする。五寸にきても三寸にきても、これは伸びきった姿できているものですから
恐ろしくないわけです。(p.202)

若手は結論を早く出したがるのが共通点。そこがいいところでもあるが、あわてすぎる
欠点ともなる。つまり、ここはひとつ相手にやらせてみようというところがない。むしろ
相手にやらせまいとさえする。
若い人はヨミは一本深く通っているが、ハバがない。だからそこをトガめられて、くずれ
去ることがある。
僕も、自分の若いときを想起する。そして、いくら世相がかわっても、若者というものは
同じなんだという考えに到達して愉快になる。(p.47)

人生論にすると無責任になるから、私はあくまでも将棋の話だと限定的に捉えている。
あと、81画(マス)すべてを視野にいれるだとか、局地戦ではなく総合的に戦局を眺める
だとか*3、とにかく、さすがある意味、棋界史においてno.1の棋士だけあって、凝縮
された言葉が詰まっている。

*1:大将棋や中将棋を単純化したものという観点からすればそれらは親戚の関係にあたる。ただその単純化の様式に違いがある。そして単純化することにより、複雑性に差異がでてくることになる。

*2:今の教育NHKの「人間大学」のテキスト。

*3:大山さんや羽生さんの異常なまでの強さとは、その勝負勘以上に、懐の深さ、盤面を広く見る視野の広さともいわれている。だから彼らは終わってみれば勝っている。一手余している。それが「マジック」といわれている。と私は推測する。でも羽生さんの場合はやはり勝負勘かな。情勢判断、形についての感覚が異様に発達しているのかな。素人の私には当然、わかりにくい。