梅棹さんの棲息論・情報整理論の文脈で、価物の代替系と沈着系の
違いの指摘があるのだが、後者には所有者のなんつうか、実存や時間の
担体性がある。これはなかなか捨てられん。
梅棹先生はいっそ、家庭に家庭博物館を作れとおっしゃっているのだが
なかなか、そんなスペースはないだろうね。
なかなか切ないのは、そういう沈着系(愛着系)フェティシズムが
になわれた物品は、はたからみると、二束三文なのだ。
強引に?、批判・批評の文脈に照らし合わせば、そもそも批評とは
そんなもんじゃ、ということになってしまうところもある。
ある人は自己の実存があったから思い入れがあるだけで、はたから
みると、意味わからん。それが行き着くところまで行き着くと、
複合アノミー小室直樹『危機の構造』)ということになる。
写真なんかも、そんなところがあって、ある空間に自己を書き込む
だけならば、沈着系であって、本人にとってしか価値がない。
音楽との「出会い」もそんなものに過ぎないのかねえ。
花田清輝は、深瀬基寛だったか?をひいて、common senseについて
語っていたけどさ。英語ではcommonという意味自体は、陳腐とか
ありきたりとかの要素が強いんじゃなかったっけ?(柳瀬)。