母の郷里の盆の墓参であらためて但馬弁について
かんがえる。
イントネーションのなかに、シンタックス(統辞)が
ある(含まれている)のではないか?(膠着語系において
という限定だが)。
だから、ある言語に染まる、自分の言語を捨てるときに
アイデンティティが壊れるかのような強い印象を主体や
自我に与えるのだろう?
私にとって但馬弁は、中国地方の言語(岡山、広島など)
の入り口でもある(個人的に)。