オールザッツ漫才

http://d.hatena.ne.jp/miro_41/20031230
で書かれていることに基本的に同意することが多い。
ただ思い上がったことを書いて、はたして「それに責任もてんのかよ」と
問われれば、私は、持てませんとしか言えないけどね(そもそも、私には求め
られないけどね)。
もともとは若手のネタ見せの枠だから。トーナメントだと、一分だものね。
おもしろそうなのに、負けてしまったら、可哀想だ。
ちょっと思い上がったことを書かせてください。
1:オールザッツ漫才がなぜ吉本限定なのか。
それは90年代は吉本の独り勝ちだったから。優秀な人材がどんどんと吉本に集合
した。そこで競争があった。強豪がごろごろしていたら、トーナメントで争う
意義はある(といっても90年代でトーナメントはたった三回のみのはず)。
ガチで。でも今は、実力の二分化が出てきている。層が薄くなってきている。
今年で三年連続のトーナメントなのだが、そういうことをする意義がどこに
あるのか、再考してもいいんじゃないっすか。その前は、自信のある、新ネタを
披露する会だったとおもう。(もともとがそういう性格から発したと思われる。
TVに出る機会のない、有望な若手に照明を当てるという。私は一度、「若手百組
ネタ見せ」のオールザッツを見たことがある(それは一分の持ち時間だった
けど)。ナイナイがそのなかに入っているころ(まばら受けだった)。そのなかに
中川家が入っていたかどうか憶えていない)。
今は、局面においては、松竹若手の方がおもしろいことがある。明らかに状況が
変わった。たとえば、青空。長年、嘱望されながら、飛躍がない。これじゃあ、
梅小鉢に抜かれるんじゃないの、とか(こういう比較の問題ではない、か)。
笑い飯や千鳥が凄いったって、松竹にはチョップリンがいる。こういう状況は
過去にはなかった。オールザッツを継続する意義自体が、実は問われているかも
しれない。惰性ではやれないでしょ。継続することに意義はあるとしても。実際、
「オールザッツ、あんまり面白くねえな」という声はどんどんと挙がってくる
でしょう。かつては「これを見逃しては、関西の笑いは語れない」というほどの
緊張に満ちたものだったはず。芸人も「オールザッツだけは、滑れない」という
プレッシャー、追い込まれがあったんじゃないんですか。そういうものが今年は
消えているようでした。芸人さん自体が、「出ても出なくてもいい」というぐらいに
なってきている。それ自体は、悪くはないでしょう。ただ状況や文脈が変化したと
いう自覚は我々にも必要でしょう。
かなり話がぐだぐだになった。整理しよう。
2:結論
a:NSCはnew starsをcreateする機関にもかかわらず、最近はどうも谷の時期に
入っているらしく、starが出てきていない。そうなると、若手のネタ見せ大会
自体が、どうも、おもしろくなくなる。状況が変化してきている。
b:吉本が、お笑いエリート養成機関としての独占の地位を維持できなくなって
きている。「吉本限定」の意義が問われている。
c:「お笑いブーム」自体が山を越えている。市民権を得ているかもしれないが、
実体は下火になりつつあるのかもしれない。なんでも流行の盛り廃りはある。
そういう冬の時代にあるのかもしれない(といって死滅するわけではない。また
盛り上がりは起こるだろうけど)。
d:ああいう「緊張に満ちたオールザッツ」自体が、二度と反復されない、特殊な
時代だった、という悲観論もありえる。私はこれについては支持しない。


偉そうな口調になっちゃったかもしれないけど、こういうことを思った。
九割的外れでも何分か、近づいていりゃいいや。(もち、私のようなちんぴらが
発言する資格があるのかどうかという根本はあるけどね)。
(一部、語句を訂正)。