木曜日の『ナンバ壱番館』(ABC-TV)のロザン特集のとき、見ていないのだが、
最後だけちょっと見た。ゲスト出演のメッセンジャーの黒田さんが、「ツッコミの
腕が上がると客の反応は全然違ってくる」という発言だけは聴けた。いたく首肯
した。昨年末の「オールザッツ」でシャンプーハットの漫才に、それは既知のネタ
だったが、私も大笑いしたのだが、それはてつじ(宮田)のツッコミが素晴らし
かったから(ボケの小出水のそれはいつもながら飛びぬけているにせよ)。大袈裟
にいえば、1960年代の漫才黄金時代の巨匠連のツッコミを彷彿とさせるような
それだった。また昨年末の「M-1」での、二丁拳銃が技術面では卓越している
のは、川谷のツッコミ=仕切りが素晴らしいからである。漫才はネタ・ボケが特に
優れていなくても、息と呼吸さえ精錬されていれば、共感できるもので、審査員の
南原がコメントしていたのはそこに関わることだろう(これは別に小堀のボケが
弱いわけでは当然にない)。
(既知のネタが特に悪いわけではない。落語などはまさしく既知のネタであり、
最近の「お笑い雑誌」で、きたろうさんが、落語はだからこそ習得するのに難しい
のだと喋っていられた。また、「ワンパターン」についても誤解はある。どなたか
ウェブで書いておられたが、パターンを形成することこそがそもそもひとつの課題
だから。パターンというものをそんなに無下に扱ってはならぬのだ。ただしさすがに
私も最近は、大木こだまひびき、酒井くにおとおる師匠連の漫才のパターン化には
危惧を抱いている。なぜだろうか。漫才と落語との違いもあるし、ちょっと手を
抜いていらっしゃるのではないかという無礼なことを思ったりもする。変奏がない、
パターンはパターンではなくなるということか。パターンと、いわゆる「もちネタ」
との違いはなにか。ヴェテランの後にこういう話をするのは角が立つかもしれない
が、若手の中川家にはいくつかの持ちネタがある。誰もが何度も見ているのに、
かつ、客を沸かせることができるのだ。勿論、上演のたびに、ちょっとづつ
変化しているのだが。これは落語にちかいのだろうか)。