管宗次さんの『京都岩倉実相院日記』isbn4-06-258263-5(講談社選書メチエ
・2003年)という書物があって、寺門の門跡の坊官(世襲)の江戸時代丸ごと
260年間書き続けた業務日誌についての大衆向けの紹介書であるけれども、
非常に面白いんだが、その本旨からずれたところを引用したく思うのは、誠に
申し訳ないのだけれども。

そもそも郷士は、江戸時代の郷村在住の武士で、地域でさまざまな理由から、
本来は地付きの武士であったものが、例えば土佐藩の坂本家(坂本龍馬)の
ように城下の武士よりも身分が低いとされた、土豪の旧家が多い。よって、
和歌山や奈良、丹波、丹後といった、古くからの地侍の名家の多くいたところは
郷士の名門が多く、家柄でいうと南北朝にさかのぼれる者は、ゴロゴロいた。
幕末に勤皇運動に参加した郷士が多い。武士としては身分は低いが、家柄を
誇れるし、経済的にも豊かな者も多かったし、所属する藩はあってないような
意識であるから、政治活動もしがらみがなくて、動きやすい身分であった。
  (p.107)

とある。畿内以外もそうだったのだろうか。これは知らなかった。
近世の家産的官僚というのは室町後期から戦国時代ごろに現れたらしく、要するに
それは、土地から切り離された存在である。初期封建制では、土地を安堵して
貰うということが目的であって、在地国人が守護地頭などの被官化する場合も
あるけれども、特に織田信長ごろになるとそれが完全に土地から切れて、不動産を
持たない(土着しない)。要するに行政団体が支配者としてある地域に赴任
(侵入)してくることになる。しかもそれが比較的流動的である(薩摩や松山の
ような例外はあるが)。郷士とはその在地国人にちかいのか。だから外から
やってくる団体からすると身分は低くなってしまうが、意識の上においては全然、
ちがう。かれらが勤皇に動いたというのは、ある意味において、かれらの意識に
おいては、正統的な行為だったのか?。


あと、これまた本旨からずれた引用になるが、

寺領も寛喜三年(一二三一年)には近江野州(やせ)、栗太荘(くりもとの
しゃう)の二所を荘園として持ち、この地は幕末まで実相院の所領として
伝わっていた。
  (p.25。一部加工)

とあって、やっぱそうだよね、寺領は幕藩下でも続いたよね、そう思っていた
けど、やっぱそうだった。全部奪われたわけではない。(それだけで引用した)。


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