私が「トーンが変わった」とする箇所は次である。繁体字簡体字にする。

幕府にては関西の諸侯薩長土の類を叛藩と名け、西郷吉之介、木戸準一郎、大久保
一蔵、大村益次郎板垣退助、後藤象次郎の輩を奸賊と称し、当時の幕議に云く、
天皇は幼冲、萬機を親らにし給ふに非ず、三條岩倉の如きも亦唯貧困公卿の脱走
したる者にして才能あるに非ざれば、深く咎むるに足らず。特に悪む可きの罪人
は西郷木戸の輩なり。近来此輩が朝廷に出入して憚る所もなく、人主の幼冲なるを
利し、公卿の愚なるを誑かし、蘇秦張儀を学で以て私を営まんとする其罪悪は
決して免す可らずとて、専ら誅鋤の策を運らす其最中に伏見の変あり。彼の奸賊
等は此勢に乗じて関西諸藩の衆を合従し、之に附するに官軍の名を以てして、
大胆不敵にも将さに長駆して東下せんとするの報を得て、在江戸の幕臣は無論、
諸藩の内にても佐幕家と称する者は、同心協力以て此賊兵を富士川に防がんと
云ひ、或は之を箱根の嶮に扼せんと云ひ、又或は軍艦を摂海に廻して、賊の巣窟
たる京師を覆さんと云ひ、私に之を議し公に之を論じ、策を献じ言を上つり、
其最も盛なるは将軍の御前に於て直言諍論、悲憤極りて涙を垂れ声を放て号泣
する者あるに至れり。其忠勇義烈古今絶倫にして人を感動せしむる程の景況
なりしかども、天なる哉、命なる哉、其献言策略も遂に行はれず、賊兵猖獗、
既に箱根を越えて江戸に入り、恐れ多くも東照神君が櫛風沐雨、汗馬の労を以て
創業の基を立てさせられたる萬代不易の大都府も、今は醜虜匪徒の為めに蹂躙
せられて一朝に賊地となり、風景殊ならず目を挙ぐれば江河の異あり、又之を
見るに忍びず。・・・

上は「そういうことだった」という再現としての過去、間接性はあるけれども、
私は多分に福沢の本懐だったのではないかとも思うのだ(憶測、主観では
ある。念のため書くが、服部の「文章のうそとまこと」とは福沢の『福翁自伝』
の嘘についての文章である)。「其最も盛なるは将軍の御前に於て直言諍論」
とは小栗のことである。結局、それを慶喜は蹴ったのだが。震えて逃げたという
証言もあるが(蜷川新『天皇』)、誹謗だと思いたい。かれの一貫性は一貫性と
してあるのだろうし。