福沢諭吉全集読みたいよなあ、読めばいいじゃねえか、図書館に行ってさ。
とくに維新以前のかれの思考を知りたい。栗本鋤雲と福沢はいつから知り合い
なんだ。福沢は小栗忠順と対話した、学んだというところは無かったのか。
福沢を「賊」にしたくないという検閲が我々にはなかったか。(と随分前から
そう思いながら、全然、調べていない)。


福沢の「痩我慢の説」は分かりやすいとは思うのだが(しかしその迂闊よ)、
同冊子として出版された「丁丑公論」は私にとっては分かりやすいものでは
なかった。遠山茂樹さんの『福沢諭吉』だとか丸山真男さんの、名論文と
名高い「忠誠と反逆」とかの参考書はあるけどね。とくに後者はそのとおり
だと思う。「勝てば官軍」というのは事実としてはあるけれども、忠誠の
論理としては容易に内面化しにくい問題があり、丸山さんのいうことを私
なりにパラフレーズすれば、いかに転向するのかという自問自答が媒介と
ならざるをえないし、服部之総さんの「文章のうそとまこと」によれば、
明六社のなかでも福沢がもっともその転向に真剣に苦しんだということになる。
基督教徒になっている幕臣も多い。
(私は以前、2chで書いたことがあるのだが、平泉澄の「武士道の神髄」という
エッセイに感心したことがあった。封建的道徳としての小忠と尊王公武合体
としての大忠をどう両立させるのかという設問に対し、かれは全然、それは
矛盾しないという。それどころか、小忠は大忠の基礎だという。尤も、それを
論証する論理はもともとが大忠を優先させる性質の平泉のこととて、福沢諭吉
が『学問のすすめ』七で批判している「権助の論理」に似ているようで、違うの
だろうか、福沢は権助の論理とmartyrdom、あえて殉死と訳すべきではないとも
思うが?、とを対比させている。日本版のmartyrdomなのだろうか。佐倉宗五郎の
論理とまた違うのだが。*1大忠と小忠は『韓非子』に見られる用語だけれ
ども、平泉はそれを独自に使っている。山岡鉄舟は、それを仏教で小乗・大乗と
している。似ているようで違うのだろうか。山岡は小乗ではなく大乗を優先する
ということだろう。しかし福沢はそれが許せない。小乗・小忠をのちに「私」
として言い換え、それが媒介とならねばならないとする。ここは加藤典洋さん
の「「痩我慢の説」考」がおもしろい。ただ加藤さんの「私」論は『戦後的
思考』で展開されている「公私」論と関わるのであって、私は十分に理解できて
いないなあ)。


ただ福沢がそこまで苦しんだのは、そこまで彼が強硬派だったからではない
のか。情けねー、孫引きすることになるが(服部論文から)、だから他の資料
との比較ができないのだが、

外国の兵御頼相成、防長二州を御取消し相成候様仕度
 (慶応二年の第二次征長戦での幕府への建白書)

(大名)同盟の説行はれ候はば随分国はフリーにも可相成候得共、The freedom
is, I know, the freedom to fight among Japanese.如何様相考候共、
大君のモナルキに無之候ては、唯々大名同志のカジリヤイにて、我が国の
文明開化は進み不申、今日の世に出て大名同盟の説を唱候者は、一国の文明開化を
妨げ候者にて
 (慶応二年十一月の養子英之助への書翰)

前者は過激だなあ、しかも外国の軍隊を頼ってもよいとする案か。勝なども
盛んに小栗に対して、北海道(蝦夷地といわれていた)を担保にしてフランスから
多大な借款をしようとした奸などと誹謗しているんだが、事実なのだろうか。
後者は、曰くつきのもので、1952年の岩波の全集で、「大君のモナルキ」の
「大君」の検閲を解除したものである。ここで福沢は明確に雄藩連合では駄目だ
と幕府の専制を支持している。そうでないと文明開化が進まないのだと。現在の
自由は相互に戦いあう自由になってしまうから。これはかれの現実的な冷徹な
眼だけれども、酷薄でもある。これはそういう情勢判断だったのだろうが、
あまりに現実的すぎて、民主主義的とはいえないな。
(丸山さんが「忠誠と反逆」で福沢が「右の規準によって幕藩体制崩壊の必然性を
肯定したのである」=筑摩学芸文庫版p.52、の「右の規準」とは何か。「肯定した
のである」とは何時の時点でか。ここは難しい。功利主義的価値の論理とは「有名
無実と認む可き政府は之を顛覆するも義に於て妨げなき」ということか。すると
認めたのは顛覆してからのことか。もともと持っていたものか)。


ただ若干弁護するところがあるとすると、かれの維新以後だが、「帝室論」や「
尊王論」における皇室観は、これはいつからのものなのだろうか、かれの若き
ころからの国史観だったのかもしれない(?)。だから新官軍からすれば不敬の
議論だけれども(皇室は社外に立って政争の当事者になるなかれ)、相応の
文典的根拠が有っていっているのかもしれない。だからその皇室観と徳川宗家
のmonarchyは彼にとって両立する。というより徳川家にはそれをする義務が
あるということか。法制的にか。ここを詰めたい。(といって私はいまだに
頼山陽の『日本外史』を読んでいないのだ、恥づかしや)。


[2009年3/26に追記。
ここ、ネットでは
http://209.85.175.132/search?q=cache:kJjMZVrzq-oJ:dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/12401/3/okuda-081004-2.pdf+%E5%A4%A7%E5%90%9B%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%AD&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
に詳しい。奥田晴樹先生のまとめ。
○津田と西の新国家構想の紹介。
○福澤の攘夷嫌悪としての薩長への距離。
○ならびに福澤の「武力討藩論」
○monarchyという用語の含蓄。autocracyにあらず。
などとくに印象に残る。
大久保利謙さんの『明六社』(講談社学術文庫)によれば、
幕臣の「新政府」への仕官(転向に見えるもの)など問題ではなくむしろ
その前の転向(藩臣から"中央官僚"としての幕臣への飛躍)こそを
主題にするべきで、「新政府仕官」などは大した問題ではないと
している(p.258-59)。福沢についても厳しい筆致がある。
たしか、古在由重さんがマルクス主義からの転向(戦時総動員体制への)ではなく
そもそも大正人道主義からのマルクス主義への知識人の転向(1920年代後半の)
こそを主題にするべきと書いたことと似ている。


3/27に追記。
寺崎修編『福沢諭吉の思想と近代化構想』(慶應義塾大学出版会・2008年)の
川崎勝「初期福沢諭吉の政治意識の表白---二つの建白書」にも詳しい。
福沢の状況判断は、かれが副業で翻訳をやっていたところの
The Japan Herald(幕府寄りではある)の論説の影響もあるらしい。
その論説にあるところの、

薩州は最初開国を妨げたる説を変じて、近来は頻に外国の貿易を
勉め、自国の諸港を尽く開て貿易を為さんと欲せり。斯く開国の
説ならば、大坂兵庫の開港を妨げたるは何故なる哉。是れ他なし、
日本全国の為め筋を思はずして、自己一家の私利を謀て躬から
盛大たらんことを欲するのみ。

など強烈である。
しかし福沢の「大君のモナルキ」の含蓄するところはともかく、
過激であり、かつ、反感も買うだろう。攘夷ゆえに薩長は民衆に
人気があったところに、フランス兵を雇って殲滅することを企画
したなんて、実現していたら、火に油を注ぐことにもなりかねない。
福沢にはそういう強烈なところ、無茶を押し通すところがあったのだ。
リアリストの彼にして意外である。
しかし彼はこの建白から帝室論・痩我慢説までたしかに一貫している。
皇室が政治に関与することにはずっと昔から反対だったのかもしれない。
薩長主体の新政府はたしかに郷党に対立してまで近代化や漸次的
民主主義を推進したところはあるにせよ、それはたえず天皇を
利用しているところがある。福沢は明治14年の政変で伊藤に煮え湯を
飲まされたのだが、この謀略もいやらしいものがある。
]



「丁丑公論」に話を戻すと、どうしても私はそれを福沢のアイロニーだと読んで
しまう。とくに、「當時余が親しく目撃せし所の事情を記せば其大略左の如し」
(フォントは間に合わせ。以下同様)として、トーンが微妙に変化するところは、
多分に福沢の本音(本性?)が出ているところだと思われる。だから「實は人民の
氣力の一點に就て論ずれば、第二の西郷を生ずるこそ國の爲めに祝す可きこと
なれども、其これを生ぜざるを如何せん。余輩は却て之を悲しむのみ」と締める
論旨にも、強烈なシニシズムを感じる。まあ本気といえばそうだが、皮肉としては
皮肉として読める。西郷なんてずっと同じことをやっているだけだ、一度目は
成功して二度目に失敗しただけじゃないか、とも、これは私のbiasかもしれない
が、そう読めてしまう。いけないかもしれない。

*1:「然り、もし小忠小義を取つて大忠大義をそこなふならば、その小を捨てゝ大を取らねばならない事はいふまでもない。しかしながら、たゝ”大忠大義を取つて一切その他をかへりみないかといふに、必ずしもさうではない。今これ等の關係の最も複雑し紛糾してゐる例として、保元の亂後、源義朝が、勅命によつて父の爲義を殺した場合をとつて考へてみよう。・・(大略)・・。勅命もだしがたくば、自ら腹を斬って父の身代りに立つべきである。人の子たるものゝ道、この外には決してない。この問題は極めて重大なる問題であつて、先賢のくはしく論ぜられたところであるから、(略)、即ち武士道に於いては、忠孝矛盾し、大忠小忠背反する如く見ゆる大變に遭遇して、いかに其身を處すべきかについて、十分の吟味が行はれてゐるのであつて、武士道を以て簡單素朴、眞の道義にくらしとなすは當らないのである」。=平泉。平泉がこの論理を他でも駆使しているのかどうか知らないんだ、恥かしや。