過去の事実といふのは、わかつてゐるやうなことでも実際にはなかなかわかり
にくい。事実にはいろいろの側面があるし、書き遺されたものは疑ひ出せば、
すべてが怪しくなるからである。とくに過去の出来事を現代の私たちの常識に
よつて判断しようとしても、この常識が必ずしも通用しない。たとへば土佐の
勤王党の特色は、天皇のことが出ると直ぐ泣くことで、誰かが天皇を語り
はじめると、領袖の武市瑞山をはじめ全員がたちまちに涙声になつたといは
れるが、かういふことは私たちの常識では計りがたい。おそらく彼等にとつて
天皇は、現代のわれわれの常識とは反対に、万民に平等をもたらす救ひ主に
当るものであつて、天皇がその本来の姿をあらはせば、幕府も将軍も藩の太守も
ことごとく光りを失ひ、自分たちと変りない存在になるといふことに期待が
かけられてゐたのであらう。何度もいふやうに土佐藩の勤王党は、ほとんど
郷士と庄屋の集団であり、彼等が上士との身分差別を撤廃するには、ひたすら
勤王にはげんで権威ある天皇の出現をまつ以外に考へられなかつたのである。
しかし土佐勤王党といへども、ただ天皇を語って泣きぬれるといふだけの単純
素朴な存在では有りえない。政治集団である以上、純朴な心情の裏側には政略も
策謀も結構はある。手近かな例は、・・・(以下略)


   安岡章太郎『流離譚(上)』p.135=新潮社・1981→1982年


佐幕といえど討幕といえど攘夷であろうが開国であろうが、勤王という建前は
どの立場にも変わらないということが、幕末の条件である。その条件は必然
であるという見地もあるし、限界を指摘する見地もある。
幕末の争点のひとつは、貴族院をどう作るかという点(枢機の合議の枠組を
如何に拡大するか)、行政人事においていかに世襲の門閥を撤廃してゆくか
(役職の家職に参与する権限をいかに拡大するか)という点、(とくに商人
にとって重要なことだが)いかに均質で共通な空間と価値観を形成してゆくか
ということなどと、曲解かもしれないが、絞ることができる。そしてその
改革が、徳川宗家の主導する枠組において貫徹できるのか、できないのかという
ことが問題になって、結果的に、討幕が果たされる(されてしまう)ことになる。


福沢諭吉などは、徳川宗家の枠組でも、それはできるという立場を持っていた
ようで、そこが後世の史家からすれば、どういう考えをもっていたのだろうと
訝しがられている点だと思われる。あれほど門閥を嫌っていた人が、しかし
かれはどうも小栗派であり、講和派ではなかったという点である。


いづれにせよ、そういった一元化の空間というものは、単純化するならば、
平等・均質の空間を作るために、絶対的差別存在が必要である(それが媒介を
する)、という逆説は、これは東洋であろうが西洋であろうが、普遍的な現象
なのだろうか、法則なのか。絶対主義といわれるものである。内在的なもの
なのか、同時的なものなのか。つまり通時的なものか、共時的なものか、この
尊皇運動は。(勿論、尊皇ばかり語って、攘夷の方を語らないのは、片手落ち
ではあるのだが)。


絶対主義でもないという説もある。とくに絶対主義説が、マルクス主義や西欧
史学を直訳したものだから、それへの反省もある。しかし、封建制のありかたが
あまりに日本と西欧とで違うわけだから、これは絶対主義以上であろう。版籍
奉還が起こりえるというのは、国土において本質的に私有がありえないという
ものだ。
(参考文献:
服部之総「文章のうそとまこと」(『黒船前後』)
司馬遼太郎『土地と日本人』の石井紫郎との対談。
笠谷和比古「プロト国家としての「藩」と官僚制」
平泉澄「武士道の神髄」=新潮社『日本精神講座』第三?巻
など他)


「處士横議」という点で私の身近な姫路のそれについてちょっと確認しておく。
ふたつの要素がある。姫路藩の財政赤字を再建した河合道臣が、しかし一方では
合田麗澤に学んだ崎門の一員であって、そこから仁壽山黌をつくり、近藤抑斎を
督学にまねき、頼山陽などを客員教授として招聘していた。道臣の息子が屏山
であり、禁門変以後は謹慎をかこっていたが、維新後は枢機に復帰し、薩長土肥
などの雄藩よりも先に版籍奉還を建白した(無視されたが)。
もうひとつは、秋元安民であり、仁壽山黌で学んだあと、大国隆正・伴信友
国学を学ぶ。かれらの影響をうけた境野求馬(もとめ)や河合惣兵衛宗元などが
藩主酒井忠績(雅楽頭の方である)の京都所司代代理の役にあったときに京坂
などで「處士横議」して、メジャーな(有名な)志士と運動をともにしている
のだが*1、それらは、禁門変以後の「甲子獄」で断罪される*2。土佐の安岡嘉助の
ように、元治元年(1864年)である。そこで処刑されずに獄にいた人のなかで
維新後に脱獄して、鳥取県知事をつとめ男爵になった武井守正のような人もいる
のだが(武井は1842-1926)。ただ、河合道臣・屏山は家老職であり、河合宗元
なども奉行職・物頭であり、決して、身分は低くない。安岡さんのところや、
薩長などのように郷士というわけではないのだが、尊王運動にかかわり、過激な
革命運動に従事している。(ここの参考文献は、橋本政次『姫路城史』下巻、
「兵庫県大百科事典」の、阿部真琴、島田清、藤井壽などの筆、島田清『山崎闇斎
先生と播磨の門流』など)。


薩長の下級役人の改革派の連中と新撰組・新徴組とではまるで敵対しているなどと
思う人がいるかもしれないが、下克上(民権)という点では共通しており、幕末の
過渡=混乱期の産物である。藤田省三さんが「時代そのものが悪党であるという
ことはどういうことなのかというと、つまりノミネーション(命名の仕方)の能力が
なくなってくることであって、・・(略)・・、あちら側も悪党で支え、こちら
側も悪党で支えている時代なのだ。ちょうど、幕末維新の時に、上野の彰義隊
自発的な奴で作られ、倒幕側も自発的な奴で作られているのと同じだ。どちらも
命令によらない集団で作られる。命令が崩壊している時代なのだ」(『世界』。
2003年9月号、p.195)と書いていたのが印象的だったが、令外官が濫発される
ようなものといっていいか(この段落、2005年9/18に加筆)。


ついでに書いておく。朱子学大義名分論だけれども(それは一方で、朱子学
太極論などの物質観・世界観と結合している)、一点一画の文字が歴史観と
直接的に関係しており(政治学と歴史学の未分離?)、ゆえに、文字の象徴性に
異様なまでに拘泥しているのだが、それは一方で、文字言語の観念性、同一性にも
依拠しているようにも私には思える。そのときに、文字外の歴史(たとえば民俗
学のような)はどう考慮されたのか。歴史は文字でしか表現されなかったのか。

*1:公卿千草有文の家臣賀川を暗殺し、その首を慶喜の滞在する東本願寺の旅館に、その左腕を当時は幕府派だといわれていた岩倉具視の家に投じたのは、姫路藩の勤王志士であり、萩原や江坂、伊舟城らである。

*2:刑は切腹を許されず、咽喉を突き刺す作法というものだった。それが橋本著では「自殺」と称されている。「死罪」と称されているものが、どういう作法だったのか、記載されていない。