原武史+保坂正康『対論昭和天皇*1(文春新書・2004年)で、2・26事件のとき
秩父宮の乗る列車に平泉澄が合流して一時間半にわたって会談したことについて
の記述がある(p.203)。そして平泉はのちに
「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子は登りますなり」
と詠む。これは登極の歌である。平泉はおそらく熱心に登極するように訴え
かけたのだろうが、秩父宮はそれを断ったのだろう。折口信夫ののちの『死者の書』
武田泰淳の『富士』まで、2・26事件の影がある。2・26事件の是非については
難しいものがある。私は敗戦後でそれが達成されたと考えているが、もっと早く
成功していればあんなに悲惨な戦争も起きなかったという意見もある。しかし
それも想像に過ぎないかもしれない。
それはともかく以前にhttp://d.hatena.ne.jp/mkimbara/20040521#20040521f1
平泉を引用したことがあるのだが、平泉のクー・デタ支持はその平泉の忠義論と
彼の中では矛盾しないのだろう。もっとも平泉は敗戦時の弟子筋の「決起」について
は呼応しなかったのだが。敗戦時には「大御心」に従った。


同日に以下削除。

*1:松本清張の未完の絶筆の『神々の乱心』について原氏が言及しているところがこの書物のハイライトであるように私には思える。