最近の神戸新聞(1/10。共同通信系もそうなのだろうか)に辻政信の弟の政良氏の
政信論が自宅で発見されたという。それについて識者にコメントを求めている
のだが、求められているのが、福井雄三氏(大阪青山短大助教授)。検索して
みると、http://tendensha.co.jp/daitoa/dai188.htmlという、かなりやばい
書物を訳されている。福井さんの「コメント」に次があった。


彼が指揮したノモンハン事件では、旧ソ連側にも相当の被害があったことを
示すロシアの公文書の公開も進んでおり、これまで知られていなかった史料に
よって、辻の実像がさらに明らかになっていくのではないか


噂に聞いていたのだが、その公文書は事実なのか。ただ以前に私も言及した
林三郎さんの『関東軍と極東ソ連軍』(芙蓉書房・1974→1981年)にも


他方、ソ蒙軍側の死傷者は、ソ連の公刊戦史によると、合計九、八二四名と
なっている。だが、その内訳に関しては、明らかにされていない。ソ蒙軍の
死傷者数とは直接関係ないことだが、ソ連の公表資料によると、ソ連軍の後方
勤務にとって最も厄介だったのは、戦傷者をチタまで空輸することであった
という。戦線後方のタムスクには、戦傷者を収容できる場所や医療施設などが、
きわめて乏しかったからのようである。そのため治療の手遅れによって助かる
べき命を落した将兵が、少なくなかったのではないかと推測される
」(p.181-182)


とは書かれていた。
実際、この大規模な国境紛争(下克上の)によって、中央では、稲田正純(阿部信行
が岳父)さんが作戦課長を更迭されるし、関東軍では磯谷廉介さんが予備役になる
し。どう弁護しても、大きな罰人事が行われたわけで、それを無視はできない。
江藤淳さんの『もう一つの戦後史』(講談社・1978年)で稲田さんは次のように
語っている。


私は十三年に漢口作戦を終わるとすぐ、私の課で軍備を根本的に拡充する、
そして対ソに徹底する、支那と戦争をやめて蒋介石と手を握って対ソ戦線を
構成するという方針だったんです。それを私が筆をとって書いて、要人に
見せたわけです
」(p.93)


満鉄は北向きばっかりだったでしょう。あれを、西向きの鉄道をかけさす、
森林開発を名目に。
(略)西向き作戦の研究を主要な任務としてそのメンバーは
行ったにもかかわらず、くだらん国境紛争解決だけに拘泥してしまった。という
のは、腹の底から私らの考えておった案に同意しておらんということなんです

(p.94)



(1/18に誤記を訂正。「青山」を「大山」にしていたことに象戯・将棋のこと
ばっか考えている症候)。