吉本千年、埴谷万年*1

ここらへんがまるで分からんわけだ。私が本を読み出したころはすでにかれらは
悪役を振り分けられていた。公正にどう読むのか。読み方が分からんという。
吉本に再度興味を持ったのは、村上一郎だとか内村剛介だとか、私も好きな人
が、しかし吉本についてほぼ絶賛以外のことをしていないという厳然たる事実
から。
村上さんはかれの言葉でいえばfragmentalな書き手で、体系的な書物は幕末関係
などに絞られているところがあるんだけど、そのひとつの『草莽論』、これは
参考文献もいろいろ趣向を張っているんだけど、その参考文献ではない序文の
なかの前提として読むべき書物として掲げられているなかに、折口全集、保田
全集とともに、吉本全集がある。そこまでのぞっこん振りつうか。
吉本については漠然な次のイメージがある(私には)。
1:政治と文学の問題圏が生きているときに、戦中派を代表して剛直かつ野蛮な
批評を展開したひと。
2:共産党にもそこから独立したセクトにも依存せずに、自立した大衆にどこ
までも依拠するべきだという考えを出して、共産党セクトも嫌だった学生に
多大な共感を得た人。
3:ある時期から、かれの詩人としての性質と関係するが、独創的なかつ奇怪
ともいえるような思考や文体を展開していった人。吉本思想といえるような
仕事。『言語にとって美とは』『共同幻想論』『心的現象論序説』など。
こういうイメージはイメージにすぎないが。
しかし鮎川信夫さんの証言によると(『吉本隆明を<読む>』のなかの「吉本
隆明私論」)、内村剛介さんは、吉本のあの、下品ともいえるような花田批判の
「転向ファシストの詭弁」の文章を読んで「「どうしようもなく孤立している
人間」がいるという印象をうけたのが機縁」だという。よーわからん。
実際、考えてみたら、村上さんが何処だったか、『北一輝論』でか、中野正剛
についてひどく冷淡であるのが私にとって訝しみだったのだが、まさか吉本の
中野への規定(農本ファシズムではなく社会ファシズム)をそのまま受け売り
してるんじゃないだろうなと、ここらへんは、ちょっと不安を感じてくる。
そういうコンテクストについてちょっと触れておいた。
(勿論、吉本の花田批判の文章を私が「下品」と形容すること自体が、ある
種類の私の順応主義ではあるのだが)。