○別宮さんが関西について述べているので、ちょっと批判めいたことを。
別宮さんの中国論に感じることは、別宮さんの師匠の松田智雄さんのお仕事を私は知らない
のだが、しかしやはり、Weberからの流れがあるのであって、一般的に、前近代的なもの、
無秩序への、嫌悪や恐怖感のようなものを別宮さんの中国論から感じるところがある。
そこが別宮氏への私の「共感と反感のバランス」の一端としてある。そこに別宮さんの不寛容を見てしまう。
factual order(事実的秩序)というものの意義を取り逃しているところがあるのでは
ないかと私は僭越かもしれないが、そう思う。勿論、西欧近代のインパクトを過小評価をしては
いけないのだろうが、私自身は、内在的発展論、それぞれのシステムの自律性を重視したいところが
ある。
小林信彦さんも共感的に引用されていたのだが(やすし論で)坂口安吾の関西論なんかも私は
かなり疑問に思っている。坂口は京都に長く過ごしていたのだが、それでも取り逃がしている
ところは多いな。たしかに東京はまるで関西など歯牙にもかけていない(それは正しい)のに
関西は東京を意識しすぎている。それが二流だと坂口はいう。たしかにそれは正しいところは
ある。東京とは違うゲームを作れずに、東京の主役としているゲームの主役に返り咲きたいと
考えているところはたしかに二流である。しかし関西はいまだにそのゲームの正統だとか中心
だとかと自任している面(それは幻想かもしれないが、一方、福沢流にいえば痩我慢でもある)
があるのであって、それを単純に笑うことはできない。それへの誤解も多い。関西人が関西弁を
どこでも喋るのは、これこそ日本語の正統だとどこかで考えているからである。それを単純に
嘲笑することはできない。勿論、関西人の傲慢はある。関西人は東京で誰もが東京人になり
たがることを見て主体が脆弱だと指摘する*1。もっと多元的であれと叱咤する。しかしそこの構造を
読み取れない。東京(近代)と関西以外の「地方」との関係において、通約不能の面があるので
あって、どちらかが犠牲にならなければならない*2。家郷を犠牲にして東京に完全に順応する。
あるいは東京(近代)を犠牲(拒絶)して家郷にたてこもる。この二者択一のなかで前者を
苦渋のなかで選んで東京に順応しているところの悲哀を関西人は読み取れない。関西は中途半端に
規模はあるから。だから同じ立場にありながら、素材のちがいによって、反作用がまるで転倒
しているように現象として違ってしまう。そこに相互の誤解がある。一方は一方を閉鎖的、
わがままとして見、一方は一方を順応主義、空虚として見る*3。勿論、こういう問題設定は
どこか間違った問題が混入してくるので*4、あまり断言的に述べるつもりはないんだが、
またもっと対象は複雑なんだが、しかし対象に接近するためにも、誤った問題設定や断言を
経由することもありえる。

*1:もっといえば馬鹿にしている。

*2:極度に話を単純化させれば。

*3:東京人を自任していた山口瞳さんは、司馬遼太郎との対談において、京都を田舎くさいと腐している。しかし京の京たる所以は、山口氏がマイナスの要因としてあげている閉鎖性と因襲性にあるのであって、そのマイナス要因としてみえるものこそがプラス要因なのであり、そこが京都の京都らしさであり、それを「田舎くさい」と呼ぶとは何事かなどと私などは思ってしまう。かれは東京以外の複数の都会性について想像することができなかったのである。『日本人を考える』=文藝春秋

*4:構成的規範的な言辞が多くなる。