中上健次についての私的覚書(1)

○小説家としては、「十九世紀型小説」(高源)を真面目に取り組むという、
文学青年らしさがあるんじゃないか。非常に生真面目で、ある意味、古いところ
がある。
○私小説を追究するにあたって、若干、自己・熊野の神話化が見られないことは
ない。自己オリエンタリズムっていうか。
○たとえば、被差別部落に古い慣習や民俗資料が残存していることは事実だが、
だからといって、そこの社会関係が、あたかも摂関家などの王朝の社会関係の
残存があるとただちにみることは、若干、牽強付会なのではないか。
○被差別部落について、日本中世史においては二つの考えがある。ひとつは、
宗教的な職能にあった人たちが、社会の世俗化の過程で、畏怖から忌避(嫌悪)
されていったという論。嫌悪があるかぎり、いまだに畏怖は残存していると
みる。ふたつめは、仏教・インド思想のなかの差別思想が、ここにあるという
観点。この前後者の考えはそれぞれ説得性があり、しかしこの両者をどう統合
させ、辻褄を合わすことができるのかは、私は詳しくないから、よく分からない。
中上は差別を同一性のなかで解消すること、前近代的要素を単に近代市民社会の
なかで霧散させること(そういう戦略)には反対であった。どうしてもそれが
どれほど否定的なものであっても、それが消失することには反対であった。
それを「差別ではなく差異」であるとする表現となる。これはある意味では
反動的な、保守的な考えである。特殊性抜きにした普遍性を拒否するということ
とどこかで繋がる。
○中上などに私の分からぬところは、被差別芸といっても、上方風の、仁輪加、
落語・漫才などの、飄々とした軽いものに対する感性が若干、薄いということに
ある。『紀州』では天王寺については言及しているけれど。全体的に、慎重に
言わねばならないが、重たい。
○『奇蹟』が谷崎賞を取り損ねたときに、筒井康隆との対談で、「笑いが欠けて
いた」と反省の弁を述べているが、かれの追究していた笑いはおそらくもっと
無気味なものだったのだろうと思われる。カタカナの醸す笑いなどと関係した
か?。
○全体的に、中上には、高橋源一郎的な要素は欠けている。生真面目に芸術を
追究してしまう。
○あれれ。どうして、こうも、否定的要素ばかり述べてしまうのか。
○『岬』所収の、「浄徳寺ツアー」などには笑いの要素はある。またかれの浅田
彰論は引き締まった文章だった(「スゴイデスネー」とかいう題だったか)。
○個人的には、私は、中上サーガそれ自体よりも、私小説的要素を濃厚に漂わせ
ながら、小説方法論を同時に追究・探究している仕事に強く魅了される。『化粧』、
『熊野集』、『風景の向こうへ』、『もうひとつの国』、『物語の系譜』など。
そういう文章・文体は、独自なものがある。西欧的なものなのか東洋的なもの
なのか、判別しがたい。キアロスタミのようなものかって、思いつきだが。
○中上のなかの、折口信夫山本健吉、あるいは保田與重郎の要素。日本語の
詩学の問題(かれの特に俳句への強い執着)。
○余談だが、柄谷行人の中上論には掣肘されてはならない。鎌田東二との対談
『言霊の天地』を柄谷は鎌田のフィクションと切り捨てていたが、そんな読み方を
する必要はない。あの対談にも中上の、思考の膂力、バネのようなものを如実に
感じ取ることができる。そのような衰弱の無縁ということを今の人に感じ取ると
すれば、スガ秀実ぐらいか。
○中上の晩年の未完の小説(『大洪水』『熱風』)は、なにを目指していたのか。
1990年代前半の時点ではあるが。
○中上ファンと呼ばれる人は、日本における、R&Bファン(たとえばジェームズ・
ブラウンのファン)のように閉鎖的・排他的なところがあってちょっと怖いのだが、
私的な文章をこうやってアップしてしまおう。しかし私などもすぐそうした「怖い」
人になりそうなところがあって、実はいろいろ腹を立てているところはある。
中上についてまったく論じることなく、中上を売名的に利用している奴等だとか。
道理立てろよな。
○しかし死んだ途端に、本人という最大の弁護者を喪失すると、すぐ忘れ去られ、
あるいは批難されるものなのね。そういう憂き世か。