○懺悔としての平和主義。それを宗教的回心だと自覚するかぎりでは私は容認する。
しかし回心というからには、それは他者(現実)の喪失を意味する。それも容認
せねばならない。
またそんなものを布教できんのか。回心はまた他者の回心を待つものであって。
回心を強制するわけにはいかん。
回心それ自体には普遍性はない。それを普遍性だと主張すると、他者からは原理主義、
一個の暴力として映える。
国連の理事国の日本の立候補に、アメリカからは、あんた暴力使えないんでしょ、
無理よという。日本は日本の平和主義を布教したいという。でも、双方とも、敗戦直後の
回心とはまた違うロジックなのだ。実際、その回心は真摯で深刻だが、エゴイスティック
であり、唐突であり、他者には通じない。出家したのだ。出家した人間がはたして
どこまで世俗的なことに関心をもつべきなのか。あるいは国家がそもそも出家することは
可能なのか。
などということを思い出しました。
(これは保田の絶対平和論、私はそれに無知、とはまた違う話。でも近似はしているな)。