○上演行為への同意と参加。映像などが文字化する、つまり複製可能の対象になりデヂタルで
保存可能になってくると、巨泉さんのいうような「TVは畢竟生(なま)だ」というライヴ感が
なくなり?、不均衡過程が出てくる。同時性がなくなる。すると上演行為への信頼感もなくなる、
ということなのか。音声中心主義批判ていうやつを、映像のときは、どうなるんだ。基礎的な
問いだけど、きちんと考える好機がない。花田清輝のものを読んでいないのだが、かれが
映像文化において、前近代性を(否定的に)媒介するといっていたのは、どういうことなの
だろう。