保坂著に言及したとことはまた違うことをいうのだが。
「大局観」は「形態観」と「均衡観」とに分解され、その両(ふた)つが形勢判断を
形成する。形態観が均衡観に影響を与える。しかし相互浸透の関係にあるのかもしれない。
居飛車派と振飛車派との間において大局観が異なるのは、上の理由からか。


昨日、竜王戦第六局。59手目の歩の成り捨て(53手目に打った封じ手)を同金と
取ったのが、果たしてどうだったのか。同銀だと58手目の△3五歩は飛ではらわれ、まあ、
苦しいながらも均衡した関係があると思うのだが、横歩取り戦は、急に良くなると
早合点した側がそこを咎められて急に悪くなると言っては言いすぎか。63手目の▲2三角が
痛打だったのだ。
中原玉とは、玉が動くことになると、途端に弱くなる。この▲2三角は一石二鳥であって、
玉を5二に移動させた。これだけで滅茶大きい利かし。さらに手順に馬を5六に作れて
先手陣が手厚くなると同時に、後手の空中の飛車が非常に窮屈になってくる。角と馬の
違いがここでは露骨に出てくる。
その馬に対して角を合わせて、後手は攻める。本当は74手目で馬を切ったあと、桂馬を
打ってどんどんと攻めたいのだけど、反撃が怖いのだ。いっぺんで寄せられる形を
決められて、形勢が決定的に傾くことになりやすい。だから76手目で浮いている金に銀
との連結をつける(場合によっては金の厚みで上に動いてゆく)という手の戻しの辛さ。
79手目で玉形を戻されて厳しくなった。そこからは後手は76の継続だが、我慢の連続。
これ以上悪くしないように苦労しつづけるのだが(ジリ貧を避けて攻めざるをえない、
しかし無理もできない)、先手の森内さんは、見切っていたようだ。もっと安全に
勝てただろうが、それだと攻めが遅くなる。ちょっと危険な方を選んで、相手に攻めさせ
攻めを引き寄せて、一気に寄せる構想を選んだ。第四局目の△3七歩の借りを返した。


と私は解釈したのだが、違うかもしれない。