高山岩男の文化類型学の仕事はよく分からなかった。この場合に
おける「文化」とは、ディルタイなどと関わるのか?。高坂正顕
「歴史哲学」と関わる意味での文化、ということが強いように思うの
だが、どうか。あと、田邊元の「種の哲学」と関係する意味での
「文化」か。梅棹忠夫さんも「文化は偏見の体系」といういいかたを
していたが、しかし、ここでの文化とは単なる文化に限定されず、
文明の意味を含む、もっと広い意味での文化である(高山にとっては)。
そしてそれはほとんど目に見えぬほどの自明なものである(それぞれに
とって)。ゆえにそしてそれは相互に排除的に働くもの、働かざるを
えぬものである。結局、我々はそれを自覚することにより、排除を
緩和させるしかないのかな。これは私の想像であるが。
一昨夜にTVで大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』が放映されていて、
このことを改めて思ったのだ。始源に、絶対有(実有、実体)を置く
世界観と始源に絶対無・空無を置く世界観とでは、いろんなことが異なって
くる。始源に絶対有を置く「民族」は、ある意味で楽観的であり、人間主義
的に映える。しかしそこにおいて、条理を重んじる。我がままにも見える。
R.Pulverseさんのいう「arguement」とは條理を明確にするということで
あるのだが*1、どうもそれが実有を先験的に大前提にしている「民族」の
特有の習癖であるように思われる。Wendersの『東京画』でのかれの小津
への唯一の違和感は(これは既に誰か指摘しているだろうが)、小津の
墓碑に「無」と彫られていることにあった。これはどちらが優れているか
などの問題ではなく、異質性の問題である。

*1:『ほんとうの英語がわかる』=新潮選書