infallibilismってね。ローマ教皇絶対不可謬説。もっとも、「教皇」だとか
「法王」っていうのは、西谷修さんが書いていらしたと思うのだが、かなりの
意訳で誤訳にちかいらしいのだが。
そういう不可謬説が、明治憲法に輸入されているという説は定説にちかいらしい
のだが、まあ、しかし内在的にもそういうものはあった。初期平田篤胤が、中国の
イエズス会帰化人(?)の漢籍からキリスト教の影響を受けていたり、あるいは、
日本の陽明学者も影響を受けている、李卓吾がもともとムスリムだったり。
中世のイデオロギーが顕密仏教で、本地垂迹や反本地垂迹だろうが、神道も明確に
顕密仏教の影響を受けている。中世が終わるにあたって、朝鮮などから朱子学
大々的に輸入される。大衆水準では違うらしいが、統治者水準、知識層水準では
朱子学が中心となる。最初からそこに廃仏毀釈性がつきまとっている。幕末では
それがいよいよ本格的になる。小倉紀蔵さんだったか、明治維新はある意味では
日本の朝鮮化じゃないかとも書いていらしたと記憶するのだが。日本の独特な
ところは、そういう朱子学がしかし神道には排斥的ではないというところか。
もともと朱子学の太極論が道教的だからか。国学自体に朱子学の影響もあるらしい
のだが、朱子学右派(後期水戸学)と国学の結託(ほどではないか)が、ともに
廃仏にむかい、尊皇運動となるところが味噌であるらしい。そしてその尊皇が
キリスト教などの一神教とも結託しえるという、こういう、融通無碍つうかね。


全然関係ないが、長岡出身の(左派)知識人が、河合継之助や山本帯刀、山本
(高野)五十六などについて、どう感じて考えているのか、表明されていないが
(その義理もないのだが)、ちょっと、気になる。精神史の問題として。


これ、差別といわれるかもしれないが、おもしろく、ためになるサイトです。
http://www9.ocn.ne.jp/~senyou/index.html
こんなの見てたら、小泉信三の方法も無理だわという気持ちにはなる。
無理が祟ったか。


(参考文献:鶴見俊輔発言、他)。