書き忘れていたことなど。簡単に済まそう。
公式令があった(明治四〇年二月一日勅令第六号→改正大正一〇年勅令第一四五号)。
公文書、法的行為の表現について定めたもの。旧体制の日本では、法律と同時に勅令
というものが権威があったのであって、法源的には議会による法律が勅令よりも上にある
はずなのだが、そうともいえないものもあり、緊急勅令などは暫時的であるが議会の権限
よりも上にある。美濃部さんの『憲法講話』でもここのところはポイントとなっている。
と私は思う、全体的にそうなっている、と。
ところで、その法律や勅令に、国務大臣などの副署が必要とされているところが、
当時の日本の民主主義の生命線であった。
村上一郎さんは久保栄さんから次のように学んでいる(『久保栄ノート』=三一書房・1970年。
久保栄との十年」の1950年11/26づけノートより。p.168。1950年とは50年分裂の年である
のだが)。久保さんからの聞き書き。左翼からの表現・分析となる。久保は1958年3月に自殺。

維新史について。明治時代を絶対主義と近代国家との混淆形態であると考えるのだが、そう
いっては、何故わるいのであろうか。たとえば、ロシアは、二月革命後、ブルジョワ独裁と
プロレタリア独裁と併立した。同様にブルジョワ独裁が、その他のもの(日本では天皇、
地主)と併立し得ないのか。三二年テーゼでは、軍隊・警察等を天皇のものと考えたが、
それではブルジョワは護身の力をもっていないかのごとくなってしまう。(改行)。
大臣の副署という形式ひとつとってみても、これは天皇の大権をチェックする或る巧妙な
方法であったともいえる。明治十八年、議会がまだなくて、内閣がはじめて出来た頃、宮廷の
宦官的なうごきによって御璽を勝手に捺されぬように、伊藤博文らは副署の必要を案出した
のである。それを、議会開設後、ブルジョワ階級が利用するようになった。そういうように、
天皇とブルジョワ独裁とは闘争しつつ相互併立していたように思える。(改行)
(三二年テーゼに対する疑問は、ずっと前から何度も伺っていたが、今日のお話では、
明治政府=絶対主義という論に反対される、そうとう正確な根拠が得られたように思われた。
これは共産党の五〇年テーゼに対する先生のアンチ・テーゼでもある。)

これと関連のある箇所をまとめて引用してみる。
1956年5/27づけ(p.199)。

幕府を指導したロッシュは、すでにボナパルティズムを知っていた。だから、絶対主義を
とらせようとしたのでなくて、絶対主義よりも一段進んだボナパルティズムをとらせようと
したのであるが、そう科学的に意識していたのではないところが、またむつかしい。明治
政権成立以後に伊藤博文を指導したスタインらは、さらに進んで、すでにボナパルティズム
敗北を知っていた。だから立憲君主制をとらせたので、単にルイ王朝の再版をつくる筈はない。
だから明治=絶対主義と考えてはならぬ。

すばらしいね。
あるいは、1956年1/5づけ(p.191-192)。

明治政府の、大久保―伊藤―原敬の線は、進んでいた。とくに原は、アナルコ・サンジカリズム
の線だけ切って、真のソシアリズムを直接的に弾圧しないように、桂にいっている。片山の
ベーベル的限界も知っている。桂はそんな区別なしに、弾圧した。ところが、日本の支配階級に
とって、原のような「わけの分った」弾圧と、桂のようにむちゃな弾圧と、どちらが有利だった
のかとなると、むつかしい。吉田茂の弾圧のしかたも、そこらを考えないと、判断を誤まつ。