将棋のプロセス。
序中終盤というよりも、前半と後半。
前半は、駒組―間合。これは捌きを有利にするために。この段階ですでにどちらかが
主導権を持っていることが多い。巧く捌けた方が僅差を保つ。(プロはだからあれほど序盤研究、
駒組の段階に細心の注意を払う。駒のぶつかった瞬間にはすでにどちらかが拙いわけだ)。
(序盤における「手待ち」の問題は?)。
後半。すでに寄せをデザインする段階。どういう「かたち」になるか。
そこで手数計算の準備段階となる。
しかしここからが厄介ではあるんだな。
将棋は攻撃するように作られているとは升田幸三さんの言葉らしいのだが(東公平さんの
文章にあった)、(だからどんなに鉄壁の防御でもいつかは潰されるのだ、ポイントはしかし
interactiveにある。関係は双数である。)、
攻撃は絶えず足りない駒のなかでやりくりせねばならず、
攻撃すれば相手に手駒を与えて自陣をますます危うくする(相手の攻撃を援助することになる)。
アマチュアの将棋は負けたくないがゆえに勝ちに行こうとしない。
プロの将棋は負ける前に勝とうとする。
将棋は均衡から不均衡に至るプロセス。しかしいつまでも均衡はつきまとう。
ゼロサムということはある。
安全にゆくと攻めの手立てはなく、詰みを目指すと一手勝ち(斬り合い)を覚悟せねばならず。
そのプロセスのなかの、やりとり・交渉に色んなものがあるんだろうが。
受け潰す、相手の攻めを責める、攻めを催促する、攻防の一手、焦点を紛らす、・・・。
将棋の一番の魅力はこの均衡ということなのだが・・・。羽生はその均衡の天才
ということにあるのか?。
ちょっと分からないなあ。実際は対局者はゲームにとっては客体(道具、媒介)でもあるんだが。
将棋は終わってみれば、あっけない。長手数でも。実に短い競技のように思える。思えるが
ゆえにそのポイントの数手は濃ゆい。一手一手の濃度・密度が高まるときがある。
つまり多数の選択肢のなかで一手を選ぶわけで。「それもまた一局」なのだろうか。
しかし勝負の決着が寸前にあるわけだが。
ところで、将棋と漫才はどこか似ているのだろうか?。前者にはあくまでも「勝者」が敗者を
排除する厳しさ、やりきれなさが刻印されているのだが(棋士のなかにも相手を負かさないと
自己実現できない稼業にやりきれなさを感じる人はいるらしい。真部一男さんの文章にあった)。
(勿論、棋道においては、勝者と敗者とは協同行為のパートナーであって、友好がなければ
ありえない関係なのだが)。
漫才のほうは、将棋の敵対―協同というより、サクラ―擬制(代行)のほうが強く、
そこにボケ主導型とツッコミ管理型との分類がある。
なにか言い尽くせないものがあるが、里程標ということにしておこう。