保坂和志さん「羽生・21世紀の将棋」(朝日新聞社・1997年)をようやくガット。
保坂さんの認識論・思考批判論を私はきちんとチェックしていないんだけど、その
論の上における将棋論。あと保坂さんは「将棋世界」の1997年に一年間、エッセイを連載
されていたし、2001年4月号に羽生論のヴァージョンアップ版の小論を提出されている。
あと観戦記もある模様。
羽生氏の将棋観についての分析。収束ではなく拡散ということがひとつのキーワード
になるようだ。
私のつたない将棋観への根底からの批判を含んでいると思う。
これからも読み続けたい。
まづ、エッセイのなかの次の文章がひどく身にしみていた。

羽生にしても谷川にしても、エンジンの性能が違って楽に勝っているわけでは
なくて、相手よりも苦労することができるから勝つことができる。(改行)
負ける側は勝った側に比べて、自分に対してかける負荷が少なかったから
(あるいは、その負荷に耐えることができないから)負ける。
(「蓋の手前で」。「将棋世界」1997年5月号。)

将棋は楽には勝てないし、勝ってもいけない。森下さんの文章だったと思うが、
奨励会時代だったかしら、大勝して持ち時間も大いに余して揚々として勝って
帰ってきたら師匠の花村元司さんから大目玉を食らったと、ある。つまり
そういうことを繰り返すと楽をして勝つという悪癖が身につきかねないための
叱責という主旨だったと思う。
とくにその負荷に耐え得れなくて、ひるんで負けたときなど*1、ひどくその負けが
残る。負けそのものよりも自分のひるみが悔やまれるから。


ところでしかし保坂さんの羽生論は、そこがテーマというわけでは当然になくって、
いわゆる羽生マジックといわれるものについての分析である。

形勢が悪いときと同じように、形勢が少しいいと思われているときでも、羽生の
判断は終局間近まで「まだまだ難しい」がつづく。(改行)
実際、多くの将棋が終盤の一手の緩手や指し急ぎで逆転する。
(「羽生」p.77。)

ところが羽生氏にはそれ(緩手と指し急ぎ)がない。私はそれをここで「絶妙の
均衡」と呼んできた。しかし保坂氏はそれを均衡だとかバランスなどの言葉に
還元させない。ここに保坂著の意趣と独創性(というのか創見というのか深み)がある。
じゃあなになんだというところがこの著の本質であるので、なかなかここで簡単に
要約することが私にはできにくいんだが。
私自身は本当のところは羽生さんの将棋はあんまり好きではなかった。勿論その
なかには、よくいわれる羽生さんの将棋の「とらえどころのなさ」、正体をつかめない
ところも関係すると思う。
升田さんは「歩を金にする法」のなかで外国人の将棋について述べているところ
がある(p32-34。小学館文庫)。ぎこちないようでも総合力があってバランスは
取れている。最後まで勝負を捨てない。
羽生さんの将棋でよくいわれる悪評のひとつの「往生際の悪さ」というところに
ついて保坂さんも一端はそれを認めている(p.37)。その援用例として外国人を
出しているところからして先の升田さんの文章と響応しているようにも思えなく
もない。外国人の将棋としての羽生将棋?(プロの間では「筋がいい」というのは
褒め言葉ではなく貶し言葉であるらしい。筋がいいだけでは勝てないから。羽生さんの
選ばれる筋は、素人眼からいうと、ちょっと奇妙なものが多い。決して洋々たるもの
ではない。また中盤の要所に羽生流?ともいえるような、「一見筋悪・一見悪手」と
いうものが出てくるところがある。しかしそれこそが「名人に定跡なし」の最善手のわけ
だが。尤もそういう「跡が見える」手というのは羽生流ではないかもしれない。羽生さんの
本質はそういう目に見えるところにあるわけではないだろうので)。


しかしそれは往生際が悪いわけではなく、単に外国人としての将棋としてあるわけ
ではなく、羽生さんの将棋観として保坂さんの表象するものからの必然性としての
棋理観である。つまり、

羽生は目の前の盤上にある局面を、そこから考えるものとも、終局という固定した
状態から逆算することのできるものとも捉えていない。一局の将棋とは流れを持つ
ものであり、指し手を判断する基準は、収束の姿なのではなく、それまでの指し方
の方にある。(p.63-64。傍点のついた文をイタリックにした)

あるいは

「読む」ことは「結論を見つける」ことではなくて、「結論が出ないように最も
引き伸ばす(拡散させる)手を探す」ことなのだ。(改行)
つまり「これでいい」と思ってしまったら、それは人間としてごく自然の、「早く
結論を見つけたい」という願望に屈したということだ。「結論を見つけた」という
事実を意味するわけでは全然なくて、「結論の見えなさ」に屈した、ということだ。
(「将棋世界」2001年4月号。p.136)

要するに将棋の本質は本当はエンドレスなのだということなのだろうか?。
ここは保坂さんはちょっと「終わりなき分析」の比喩に頼っているようにも思えなく
もないんだけど。しかし将棋に於いて、もしかするとそれは真理かもしれない。
羽生さんのみがそのエンドレスに耐え得るということなのだろうか。
しかし収束なき将棋は語義矛盾という気もしなくもないんだが?。
ただこの保坂著には、単に棋理考が述べられているわけではなく、それを基にした
実戦の方法について述べられているところもあり(p.140-146)、いままでの格言を
継承・刷新し、反してもいる新格言(羽生と保坂との「合作」)。私も今度試して
みよう(「盤上の駒を清算しない」「相手の遊び駒を取りにいく」「駒を世に出す」)。
今回はとりあえずこれだけ。あと人工知能と棋士との将棋観の違いについて述べられて
いるところもあるのだが、これはまたいつか。いうまでもなくこれらは対立しあう
関係ではない。
ちょっと長くなった。

*1:12/17に追記。「ひるみ」は臆病のみならず、独善的な「楽観」としても現れる。将棋・象戯とはしんどい競技だな。