潮匡人『常識としての軍事学』(中公新書ラクレ・2005年)。どういう雑誌に
連載されていたかなどは問わない。ヴェーバーではなくゾンバルトを持ってきて
いるところ(第四章)に虚を衝かれたのだが、それは私が無知だから。
http://cruel.org/econthought/profiles/sombart.html
などの紹介ページもある。
しかし村上一郎さんの「日本軍隊論序説」にもあるように、軍事と近代資本主義
とは密接な関係がある。さらにいえばやはり近代民主主義とも密接な関係は潮氏の
言及するようにあろう。
西垣通さんの『マルチメディア』(岩波新書・1994→1996年)にも次のごとく
あった。アメリカニズムについて述べている箇所で。

一口でいおう。パソコンというのは「アメリカ文化の申し子そのものなのだ。
「人民のためのコンピューター」と「軍事研究」と「金儲け」とは、すべて一体と
なった存在なのである。これらが矛盾していると思うのはこちらの眼力が足りない
のである。
(p.83。傍点のついている箇所をイタリックにした)。

また潮著でゾンバルトの引用でピューリタニズムと軍国主義との親縁性について
の指摘(p.67)は、日本のキリスト教徒系ヴェーバー主義者には見たくないところ
ではなかろうか。プロテスタントにはたしかに、「愛と平和」ではなく「愛と
憎しみ」の宗教であるところはある(これは他の一神教にも比して強いのでは
なかろうか?)。
尤も、最近のアメリカの原理主義化といわれているものは、ニーチェ的な問題圏も
関係しているようにも思う。『ツァラトゥストラゾロアスター)かく語りき』
は私にとって分かりにくい書物なのだが、最後、「ましな人間たち」が驢馬を前に
ふたたび「敬虔心」をとりもどして祈りに跪づく重要な場面が出てくる。ブッシュの
born againもそういうものなのだろうか。嘲笑するつもりはないが(私も似たような
ものだ)。あえていえば「ポストモダン的な信仰心」なのだろうが。って、
思いつきの意見だが。
ところで、その潮氏の血脈について自身で語った文章がwebで掲載されていて、
そちらも興味深かったのだが。
http://www.okazaki-inst.jp/ushio.gpandi.html
典型的な近代における「社交資本」(原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』=世界
思想社・2001年)をもった一族のようにも思える(勿論それは近代における民主主義
や実力主義によって獲得された増殖する資本なのだが)。