○結局、「政治と文学」のパラダイムなんだけどね。その政治の項に、経済が入ったり、
技術工学が入ったり、実行が入ったりするわけだが。前者が強くなりすぎると、この両者は
相補的だと解されるのだから、後者を擁護したくなるというだけかもしれないが。しかし
私を含め若い人は、実際、後者に弱い。弱い上で、後者を擁護したり否認したりしている。
この中途半端。まともな短編・詩歌一篇作れぬ、ポエジー(創作としてよい)に対してポエジー
で応答できぬ。ポエジー(詩素)概念も不当に歪曲されている。そんなもん、ロジック、レトリック、
ポエジーが三位一体で(?)分離できぬことは、踏襲するべき古典的な考えなのだから。
まづは若いうちはそれを嘘だとしても信じるべき事柄である。そういう基礎的な訓練が異常に
落ちている上で文学を持て囃したり蔑んだりしているわけだ。


9/1追記
中野重治『事実と解釈―盾の表がわを見よ―』(講談社・1957年)を読んでいたら、中野が
亀井勝一郎の小文を引用していた。それをここで孫引きしてみたい(p.137-138)。

私は自分で批評を書いていて時々「批評の礼節」ということを考える。主としてそれは言葉の
問題だが、つまりだれかを非難しようとするとき、思わずひどい悪口が心に浮んでくることが
ある。ところが、それが自分のほんとうの怒りから発したのではなく、ただ大向こうを
うならせようといつた下心、読者へのおもねりから出てくることがある。悪口ほど面白がられる
ことを知つているからだが、私はこれを用心したいと思つている。(改行)こんなことを
言い出したのは、実は最近の雑誌でも新聞でも読んでいて、首相や大臣個人への攻撃の言葉に、
必要以上にどぎついのが目だつたからである。私は政局への批判攻撃をつつしめといつている
のではなく、その場合の言葉のハッタリやどぎつい悪罵の乱用だけで果していいのか疑問に思って
いるからである。

私にとって耳が痛い。「死んでくれ」と書いたことをリテラルに取る人もいるかもしれないし、
またこれが「読者へのおもねり」ではないという保証はない。たしかに私はそれをレトリックで
書いた。ただ「象徴的に死ね」という意味にとどまるつもりで書いたのではなかった。しかし
こういう表現は慎むべきなのかもしれない。