昨日の補足。
保坂著「羽生」の中心にあるのは、第五章「局面の複雑化」にある。

羽生は”単純な手順”と”直接的な手順”を嫌う。(改行)将棋では「いいときに
単純に(直線的に)指し、悪いときは戦線を拡大して複雑に(曲線的に)指す」ことが
いいとされているが、羽生はいいときも悪いときも複雑な(曲線的な)手順を選ぶ。
(「羽生」p.107)。

保坂さんは棋風という言葉を嫌うかもしれないが、しかしこれぞ、羽生さんの棋風を
表現する言葉ではないか。

”紛れを求める”という言い回しには、「心理戦に持ち込んで、相手の読みを攪乱
する」というような響きが感じられるが、戦線を拡大するのはそういうことでは
ない。「(遊んでいる駒を活用するなどして)盤面全体の可能性を総動員すれば、
悪いと思ったときでもなんとかなることが、ままある」つまり、「傾いていると
思われていた局面も、意外に傾いていない」ということだ。
(前掲書=ibid。p.110。傍点箇所はイタリック)。

将棋の言葉に馴れた人にはごくあたり前に聞こえるだろうが、「いいときは
単純に、悪いときは複雑に」と言うときの、「いい」と「悪い」の根拠は
何なのか? そこのところは明確には言われていない。
(前掲書。p.110)

「いいときは単純に」という言葉は、(改行)”「いい」という形勢判断を生んだ、
盤面に対する視点(強調点)を疑うな”(改行)という意味で、「悪いときは複雑に」
という言葉は、(改行)”「悪い」という形勢判断を生んだ、盤面に対する視点
(強調点)を疑い、別の視点(強調点)を探せ”(改行)という意味に解釈すべき
ではないだろうか。
(前掲書。p.122)

いづれも羽生将棋にまつわる文脈への適確なポイントと精確な言葉。さすが作家。
このあと「よみ」への分析に入ってゆくわけだが、こちらはまたいつか言及する。
ところで保坂さんも引いている羽生さんへの池崎和記さんのインタヴューの
掲載されている「将棋世界」1995年12月号の前の11月号のその項が谷川さんへの
インタヴューであり、谷川さんは次のように喋っている。

――羽生将棋をどう見てますか。
(谷川)中盤戦の本当に手が広い局面で最善手を見つけるのがうまいですね。
まあ結局、そういうところで本当の強さが出てくるわけですけど。序盤はそれほど
うまいとは思わない。私が負けた将棋でも序盤はこちらがリードしているケース
がありますんでね。
――「苦しいときは何をやっても悪い。でも羽生はそういうときの戦い方が実に
うまい」というのが青野さんの説です。
(谷川)そうですね。私は局面があまりゴチャゴチャするのは好きじゃないので、
苦しい局面では勝負に出ることのほうが多いです。ただ長引かせるだけの粘りは
やらないですから。
(「将棋世界」1995年11月号。p.161)

ここでの「局面がゴチャゴチャする」とは「局面の複雑化」ということでは
ないのか。谷川将棋と羽生将棋との将棋観の違いがやはりここに言葉として
表現されている。その「美学」を旧いものとしてみるかどうかは別として。
実際、ファンとして多いのは(感動させているのは)、やはり谷川将棋
ではないのか。升田―大山の関係が、やはりここでも谷川―羽生との関係
として反復されているような気もさせられる。