野原燐さんのところのbbsで知った。
桂島宣弘さんのhp 。博覧強記のうえの鋭利な分析。
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/kairon.htm

ちなみに、前節で述べたように、自己充足的性格の強い「日本」論を述べていた
猷栄ですら、「漢夷等を見れば、禽獣虫魚の父子、夫婦、兄弟、朋友あるの類」と
して「漢夷=禽獣虫魚」論を展開し、まさに真淵と対極の主張を行っていたことが
想起される。「文化」の優劣を争う言説は、いかに極端な「日本」讃美論であれ、
結局は「日本中華主義」の枠内に、したがって<日本−中国><日本−朝鮮>と
いう比較が付き纏う「華夷」思想自体に吸収されていくものであることを、この
真淵と猷栄の対照は鮮やかに示しているのである。(改行)そして、この「日本
中華主義」論の解体、「華夷」思想自体の解体によって、初めて国学的言説は
誕生していくことになる。だが、結論を急ぐ前に、今一度この真淵の主張が実は
「自然」をめぐる視点の転換によってもたらされたものであったことを検討して
おく必要がある。ここで、真淵の「自然」が、「日本中華主義」者の「自然」
とは明確に異なった地平から導出されたものであったことが注目される。すな
わち、真淵の周知の五意考での主張、「日本」の「古へ」の「うた」、特に
万葉集から導出された「おのづから」という主張が、ここで省みられるべき
だろう。

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/kindaitenou.htm

結論的にいえば、先の福沢の言説が「皇学者流」に対置して発せられていることが
象徴しているように、「人心収攬の中心」としての天皇という主張は、主として
国学者からでてきたものではなかった、とわたくしは考えている。この意味では、
近代天皇制成立前夜における、徳川幕藩体制を前提とする「人心収攬」のための
イデオロギーの系列がまずは注目される。寛政期の松平定信や正学派朱子学
イデオロギーなどは、内外情勢に対する深刻な危機感の下で、教化言説(
政教一致」)としての儒学朱子学を打ちだしたものと捉えられるが、一九
世紀前半にかけての儒学者あるいは心学者を動員しての教化言説は、いずれも
幕藩体制下での「人心収攬」のために儒学朱子学を再構成したものと考え
られる[12]。そして、それらの教化言説を踏まえて、天皇への名分を正すこと、
さらに天皇祭祀の執行によって徳川幕藩体制への「人心収攬」を果たそうとした
のは、いうまでもなく後期水戸学であった[13]。

[17] 工藤平助、本多利明、佐藤信淵などのいわゆる経世論的思想家、さらに
杉田玄白前野良沢らの蘭学系思想家などは、近代日本との関わりで「開明的」
思想家と評されることが多かったが、国民国家のイデオロギー編制との関わりで
再検討される必要がある。前掲拙稿では簡単ながらもこの点に言及している。
参照されたい。

だが、天皇に道徳的責務を課しかねないこの議論もあって、井上は「不敬」である
頭山満らに攻撃され、ここに昭和初期における宣長的「皇統連綿」論への道が
掃き清められていくこととなる[24]。いずれにしても、後期水戸学の天皇論は、
近代以降には天皇の道徳的責務に関わる議論を何度か呼び戻す役割を果たすことに
なる。

そして、次章でのべるように、明治初年に至るまで、平田派の天皇論は、ついに
こうした宇宙論・幽冥論の考究というパラダイムから外へ出ることはなかったと
いわなければならない。さらにいえば、この点こそが戦時中の篤胤論が強調
しなかった側面であったことにも注意しなければならない。

周知のように、日本思想史学の確立者を村岡典嗣とするならば、それは
ヴォルフ(Wolf)やベエク(Boeckh)らのフィロロギー(Philologie)=文献学
に触発されて、宣長学・国学を留保つきながらもそのようなものとして捉え、
(略)。
いうまでもなく、村岡に絶大な影響を与えた芳賀矢一が、一九〇四年(明治
三七年)、国学を文献学と捉え、その後継に同じく国民史としての国文学史を
構想していたからである[34]。芳賀は、ヴォルフやベエク、
フンボルト(Humboldt)などドイツ文献学の議論に導かれつつ(略)。
文献学と宣長学を重ね合わせることで、一貫した国民史としての文学史、あるいは
精神史、さらに史学などが記述される方法がここに見いだされたのであった。
(改行)。村岡の日本思想史学は、この芳賀から国学=文献学という視座を学ぶ
ことによって、実は一貫した国民史としての日本思想史学の記述様式をも獲得した
といえる。すなわち、一九一一年(明治四四年)に成った『本居宣長』は、宣長
文献学という視座に従って記述しながら、実は西洋文献学史の文脈によって古学や
国学の展開を捉え、かくて国民史としての日本思想史を語るものとなっている。
(略)。
そして、こうした否定的篤胤像は、実は昭和初期の篤胤賛美とは表裏の関係を
なしていたことが看過されてはならない。確かに、芳賀や村岡の文献学としての
国学という見解については、山田孝雄[35]などは強く反発し、次のようにのべて
いる。(略)。
明らかに村岡の「哲学的論理的分析」の影響を受けている羽仁五郎が、(略)。
思うに、戦時中の国学像が否定されたことに対応して、芳賀・村岡的な宣長像・
篤胤像が、戦後の支配的言説の基盤に存在していくこととなる。