○女性を主人公に男性作家が小説を書くというとき、よく知らんが、フランス自然主義(ゾラだとか
モーパッサンだとか)が原型としてあるわけか。それ自体、暴力だという意見もあるけど。
それが日本に輸入され、日本の自然主義がある。よく知らんが、徳田秋声だとかか。レヴェルは
違うが、近頃の、ポルノ系アニメなどにも系譜としてつながる。フランスのことはよく分からない
のだが、日本においては、社会関係がちがう。ホモ・ソーシャルというとき男性を批判するときに
使用されることが多いのだが、しかし正確にいうならば、homo socialとは女性のhomo-socialityも
あり、むしろその総体を捉えねばならない。そこらへんのリアリティがないわけだ、表象物に。
その社交・群生。ちょっと悪口になるが、差別かな、女性にかぎらないけど、そういうホモ・
ソーシャルの若い女性の会話なんかをたとえばひそかに録音してテープ起こしなんかをしてみたら
(やっているわけではない)、かなりの程度で、文にならないよ。文とは統一性が要求されるんだ
けど、とにかく統一性(統覚)がないんだから。実際、言語になっていないことも多い(女性に
限らないけどね)。そういう集団性のなかから、個をフィクションだけど、彫りおこすときの
リアリティをどう確保したらいいのかという技術・視点がある。勿論、そういう集団への溶解
としての自我というものは、遺制というよりも、現代においてあらたに創出されているものかも
しれないけど。現在の、亜流の、末裔としての「自然主義」(?)形式をおもうとき、すでに
リアリティの反映を喪失して無縁になっている(完全に構成物だけになっている)んだろうなと
思うことがある。(高源さんの『盛衰記』は文庫になったんだったな。まだ入手していない)。