内田樹さんが7/13(2004)づけの文章で日本社会の擬似家族性について指摘している
文章。むかし場末の古本屋で(失礼)、イーデス・ハンソンさんのエッセイ集にそういう
主題の書物を立ち読みしたことがあった。会員制ではない、親戚社会の国家というような
ものだったかしら。ただ次のことを思い出した。知人が一神教に入信したとき。かれ
曰く、入信すると、俗的には、聖書の血縁の系譜のなかに自分が組み込まれる。アラブ
なんかも、イスラームに入信したのはかなり西暦7世紀あたりのはずなのに、アダムとイヴ
の系図において、イスマエルの子孫というふうに位置づけられたことになっていた。
私のような黒髪のモンゴリアンがアダムとイブの子孫というぐあいに「猶子」と格好
なのか、そこに位置付けられるのは大変、奇妙な気持ちだと、表現はそういうものでは
ないんだが、そういうようなことを喋っておられた。私も聞いていて変だなと思った。
また次のはなしもある。斯波義信さんの文章。ある雑誌に掲載されていてコピーした。
その雑誌がなにだったか、これまた記していないから、忘れたんだが*1

たとえば宗族が系図をもち共有財産をつくり、先祖の霊廟をおくことは、唐までは
大貴族に限られていた。近一千年にこの風は中産層で日常化し、福建と広東でいちじるしい。
広東では弱い群小の族がその旧姓をすてて、強い族の傘下に入ることを「連宗通譜」という。
企業連合の考え方だ。(「華僑ネットワークとアジア海域圏」)

これはあくまで親族構造が強いわけで、日本のような、「家の論理」(養子)ではない
と思うんだが、しかしそういう例もある。初めて知ったんだけど。
で、なにを私は言いたいんだか、自分でもよく分かっていないのだが、
・ひとつは、ゲゼルシャフトゲマインシャフトはちがうものの、しかし前者が後者を擬制
することもあるということ。
・ひとつは、日本の「家の論理」を世界の文脈からみると、どう理解すればいいのか、という
こと。

*1:7/23。昼。http://www.osakagas.co.jp/cel/back_number/cel_39.htm